「慣れる」ことの大切さ

 

2023.11.27

なんとも寂しい響きの後期高齢者という呼ばれ方が目前に迫ってくると、生きていく上で『慣れる』ことがどれほど大切なのかが痛いほどわかるようになってきます。何年か前には簡単にできたことが少しずつできなくなってきていることに気づきます。初めのうちは、おかしいな、気のせいかなと思っていたのですが、そうではないことが現実になってきます。「昨日できたことが今日はできない」という現実も、明日は我が身ということになるのでしょう。最近は人間はこのようにして歳を取っていくんだなあと思うようにしています。

「慣れる」ことの意味が如実に現れるのが家族関係です。家族との生活は(独り住まいの生活も含めて)慣れることによって自然になっていきます。家族だからこその喜怒哀楽の表現は何よりも尊いものだと思えますし、慣れるには時間が必要なこともわかります。

障害を持った人と生活していると、家族なら許されることが他人となるとそうはいかないという現実に直面します。家族となら気にならないことが、全くの他人となるとそうはいかないのが常です。慣れれば何でもないことでも初めて出合ったことには驚いたり腹が立ったりします。

以前、作業所の前で道路工事があった時の話です。警備会社のおじさんと仲良くなりました。いきなり飛び出していく人や大きな声を出す人と最初に出合った時は、当たり前のようにおじさんは大変驚いていました。「何が起こったのか?」「大丈夫か?」という表情でした。しかし時間が経過していくと様子が分かってきて、おそらく「これが当たり前なんだな」と思えるようになったのでしょう。大きな声で話しながら歩いていると、「おお今日も元気がええのう!」を話しかけてくれるようになりました。そのうちお菓子までくれるようになり、いただくとお返しをするといった関係にまでなりました。わずか数週間の出来事です。「慣れる」ことがいかに大切なことか教えてくれた一例です。

「障害」の課題解決の道は「知る」ことと「慣れる」ことに尽きます。障害の特性について知り、毎日の生活に慣れていくことで見えてくることがあります。ただ慣れるのは言うほど簡単ではありません。「慣れる」ためには何もせず怠惰に過ごしていては何も生み出しません。「慣れる」の漢字が示す「忄」は「心(こころ)」を意味し、「貫」は「貫く(つらぬく)」を意味します。心を貫くこと、つまり心身をフル稼働する営みになるのでしょうか。              

支援の仕方によって人は変わります。大きな声を出したり乱暴な行為をする人に対して頭ごなしに注意してもその行為が止むことはないし、逆にエスカレートすることもあります。新しく支援員になった人にとっては衝撃的なこともありますので「誰もが出合うことだから、とにかくその人のことを知って慣れてください」と伝えます。

慣れるためにミーティングで経験のある職員から支援の仕方等を話すこともあります。ただ関係性の問題ですから、単なる技術や手法だけの問題ではありません。良好な関係を築こうともせずに手法だけを真似ようとしても意味はありません。特に支援の背後に障害者に対する偏った思い込みがある場合、どれだけ慣れようとしても無理が生まれてしまいます。障害者だから「言ってもわからないだろう」とか「きっとできないだろう」という思い込みで動いてしまう人がいます。

 

ステップワンを希望して入った利用者には、本人が「ここを出たい」と言うまでは他へ移ることは誰も考えません。利用者に替わってもらうことはできないので、必然的に職員に考えてもらうことになります。何人もの人が合わないことで、ステップワンを去りました。一つには慣れることができなかったのだろうと、いつも思います。

畑作業で思い出すこと

2023.6.18

 今から40年以上も前のこと、当時の中学校特殊学級(「特別支援学級」になったのは2007年)では作業学習が盛んにおこなわれていました。先進校と呼ばれる学校では、まるで学校内工場のようにして子どもたちが懸命に作業に取り組んでいました。シーンとした教室で黙々と手作業に取り組む子どもたち、そこに無駄なおしゃべりや笑いはなく、自分のクラスの様子とのあまりの違いに驚きました。担当の先生は「障害児が中学校卒業後、社会に出て仕事に就き、黙々と働くこと」の意義を強調しました。感心する参観者が多かったようですが、自分には違和感しか残りませんでした。

 学校に戻ってから工場のような学校にはしたくないと思ったので、同僚と相談して作業学習としては農作業を選びました。農業に長けた同僚の教えで野菜を育て始め、小さな菜園を作りました。夏に向けてきゅうり、トマト、ナスなどを植え、毎日の水やりや土いじりが作業学習としての日課の一つになりました。野菜作りできっと子どもたちも喜ぶだろうと思ったのですが、結果は惨憺たるものでした。

炎天下、外に出るだけでも億劫になるのに手や服が土で汚れたり、水に濡れることを嫌がる子どもたち考えてみれば当然のことでした。「この暑い中、誰が喜んで土まみれになって作業をするか!」が子どもたちの本音だったのでしょう。みんな地面に座り込んで見ているだけになり、最後に作業をするのは先生たちだけになりました。

野菜作りを一から教えてくれた先輩は「宮崎君、この子らは将来農業をすることはあるんか? ないんやったら無駄やないか?」と呟きました。自分の気持ちのどこかに「障害を持った子どもたちは手足が汚れることも厭わず、黙々と作業に励み、野菜の生育を喜ぶ」といった思い込みがありました。障害児の実像も知らずに、これまでの刷り込みによってつくられた誤った障害児像を既に背負い込んでいたのです。結局のところ農作業をするのは先生たちだけになり、収穫した野菜を入れたカレーを作って、職員室の先生たちに振舞って初めて子どもたちの笑顔が生まれました。

「学校内工場のようにはしたくない」と言いながら、畑を作ることも全く同じことなんだと反省しました。子どもたちの気持ちも聞かず、確たる目標や意図もないのに、何か作業をしなければとしか考えない浅はかな行為に子どもたちがついてくるはずはありませんでした。

いま畑を借りて農作業をすると言いながら、全く同じことをしているのかもしれないと思う今日この頃です。生活の中に色々な変化を生み出し、ひとつでも気に入った作業や遊びがあればと考えながらの作業所ですが、みんなに何が合っているのか、何が気に入ってもらえるのか、みんなは何をしたいのか、毎日毎日が考えることの繰り返しです。それでもヒットがなかなか生まれないのが現実です。

支援の側の思いつきや気まぐれで活動を考えないこと、支援員の都合で活動をしないこと、とは言い

ながら試行錯誤の毎日です。「作業をしない作業所」をうたい文句にし、「自由で創造的な活動を」とは願っていますが、はたしてそうなっているでしょうか? 利用者は満足しているんだろうか? そうやって考えると、ひとりよがりではないのかと反省ばかりが生まれてきます。

ただ、そんな作業所ですがみんな来るのを楽しみにしてくれています。コロナ禍の中で作業所が休みになると不満や不調を訴える利用者が出ました。「やっぱりみんな作業所に来たいんだ」とは支援員と親の共通した思いでした。しかしそれに甘えているばかりではさびしい限りです。

 

一本でもヒットを増やしていけるように、みんなで考えていきます。

花は咲く

2023.3.11

 2012年にリリースされたチャリティーソング「花は咲く」。いろんな人の歌を聴いたが、Hue(ヒュ)という人たちのデュエッㇳがお気に入りです。韓国釜山を中心に国内外で活躍しているPopsとOperaを融合させたPoperaとして活動している男女デュオだそうで、ヒュ[hue:休]という名前になっています。

 スコットランド民謡の「広い河の岸辺」という歌が好きで、何かの加減でこの人たちの歌声を知りました。いろんなことで疲れた時、この人たちの歌を聴くと本当に癒されます。一度聴いてみてください。

 

NPO法人ステップワンの会報第28号に掲載する原稿を載せます。

 

2022.12.28

あれから30年

宮崎 吉博

 ステップワン作業所が現在の楠部町に移って、来年でちょうど30年になります。

 伊勢市駅裏のアパート2室から始まった作業所。その当時は心身障害者小規模授産所と呼ばれていました。入所者(現在の「利用者」)は少なく、公的な補助金もわずかばかりでしたので、家賃や光熱水費などを支払うと指導員(現在の「支援員」)の給与に回せる金額はわずかなものでした。そのため支援は親の会とボランティアが主に担当し、給与は常勤の人でも月に十万円に満たない額しか出せませんでした。

それでも赤字なので、毎週日曜日にはボランティア、入所者、親などの家族で廃品回収を行っていました。施設に車のない時代ですから、みんな自家用車を使っての廃品回収でした。日曜日の朝になると車が何台もアパート前に並ぶのはなかなかの壮観でした。ただその廃品回収は家族に極めて不評でした。紙類の廃品ならまだしも、当時はアルミ缶回収の収益が大きいものでしたので缶をビニル袋に詰めて運びました。当然、缶に残ったアルコールなどの液体がこぼれて散々な目に合う車のシートでした。その匂いたるや吐き気を催しかねない悪臭で、家族からの苦情は絶えることがありませんでした。しかしそのお陰もあって、廃品回収の収益は月に10万円を超え、年間140万円というのが予算でした。当時の県への申請書には「入所者及び保護者、そして近隣のボランティアの人々と共に廃品回収を通して地域との交わりをもっている。年間延べボランティア人数130名」と記されています。

アパートでの生活が3年ほど経過した後、入所者が増えることがほぼ確定しましたので自前の作業所が欲しいと願うようになりました。その頃、知人から楠部町の学習塾の建物が売りに出るという話をいただきました。何度かのコンサート開催で収益も少しずつ生まれてきていましたが、まだまだ建物を購入するだけの十分な予算を組むことはできませんでした。そこで県の補助金を申請することになったのですが、その時の担当の方がとても熱心な人でした。その人は何も持たない全くの民間の小さな団体が施設を作ることに共鳴してくださり、実に丁寧に指導してくれました。ちょうど制度の変わり目だったらしく、1年待てば建設補助金が大きく膨らむなどの助言や手続き上の困難な課題の解決に力を貸してくれました。その後もたくさんの人に力を貸してもらうことになります。改修工事を引き受けてくれた友人の工務店、今も本当に低い金額で土地を貸してくださっている大家さん、親しくお付き合いをしてくださっているご近所の皆さん、きっと最初のうちは戸惑いも多かっただろうと思います。

19934月、お世話になったたくさんの方々を招いて盛大に開所式をした、あの時の感激は今も忘れられません。開所した翌年からほぼ現在の利用者が次々と入所してくることになります。当事の活動記録を見ると平家の里でのキャンプ、金山パイロットでのミカン狩り、滋賀県の協働作業所との交流会、伊勢レックでの映画会「さよならCP」、ボランティアフェスティバル参加、クリスマス会等々、本当にイベントが盛り沢山でした。そんな勢いもあって、前号で書いたコンサートの成功で赤字を埋めていけることになったのです。その貯えがグループホームの開設につながり、今に至っているのです。

あれから30年、長いようで本当にあっという間の出来事だったような気さえします。

 

コロナ禍でなければ盛大にイベントを催したいところですが、今のところどう考えても無理なようです。ただそれは単に新型コロナ感染症だけのせいでなく、自分たちの年齢が高くなりすぎてエネルギー不足であることが一番の問題です。

ステップワンとは何か?

2022.4.17 

 

 研修報告のコーナーに掲載した植田莉那さんの卒業論文は「ステップワンとは何か?」を問い直す意味で良い機会になりました。彼女のフィールドワークとインタビューを通して、これまで自分が「何を考え、何をしようとしてきたのか?」を整理できたようにも思います。

 この機会に植田さんの論文を抜粋させていただいて「ステップワンとは何か?」を考えるためのストーリーを作ってみようと思い立ちました。ただ書き始めてから改めて論文を読み返してみると、何か自分が余計なことをしているように感じました。そこで小細工はせずに全文を研修報告のコーナーに掲載しました。

 ただ自分の感じたことや考えたこと、これから考える必要のあることは綴っていきたいと思いますので、エッセイのコーナーに3月に書いたものも併せて残していきたいと考えています。

 

 ステップワンを考える上での主要な軸は「『支援』とは何か?」であり、「『家族』とは何か?」に絞られます。

 ステップワンは「利用者」や「支援者」という言葉を嫌いながらも、運営上やむを得ず使用しているという側面があります。

制度やサービスは利用しますが、私たちは「『支援する・支援される』という関係を通してしか障害者と生きていけないのか?」を考えていきたいと思います。 

「地域で共に生きる」とは言うが、その中で「支援」はどう位置づけられるのか? 「支援」という言葉を使わない家族の関係とどう違うのか? どこが違うのか? そんなことを考え続けていきたいと思います。

 

 

植田莉那さん(三重県立看護大学)の卒業論文からステップワンを考える

2022,3,21

NPO法人ステップワン 宮崎吉博

 

 植田莉那さん(当時 三重県立看護大学看護学部4年生)が卒業論文のテーマとして、「知的障害者が地域の中で『共に生きる』を実現するために」を取り上げ、ステップワン作業所を中心にフィールドワークをされました。これまでの大学生の実習とは異なり論文のための体験であり、NPO法人ステップワンにとっては初めての試みでした。2月に完成した卒業論文を持参され、施設長と担当ゼミの教授の方も交えてお話ししました。その時には斜め読みのような形で読ませていただきましたが、その内容に深く感銘しました。

 ここには私自身が抱いているステップワンの理念とこれまでの歴史の中で直面した課題が凝縮されており、見事な論理展開で知的障害者が地域で生きるための問題が提起されていました。そこでステップワンの職員をはじめ関係者の方々全文をお配りしようと考えたのですが、長文でもありますので研修用に抜粋して「ステップワンとは何か?」を考えるためのストーリーを作ってみようと思いました。

しかし、この試みはただ、これはあくまでも個人の想いからくる我田引水的な資料ですので、その点はご理解ください。

(「ポイント」とあるのが私自身の感想や想いであり、他が植田さんの論文の抜粋です)

 

植田さんは、テーマに対する問題の所在を以下のように捉えています。

Ⅰ.問題の所在

本研究では、障害者は家族が介護を行う事が当たり前とされていること、また障害者の なかでも知的障害者が地域生活をおこなう上で、自己決定能力や意思表示方法が健常者や 身体障害者と異なるため、特有の困難があることを課題とし、知的障害者が地域で生活を 送るために必要となることについて明らかにする。方法として、知的障害者の地域生活を 支援する生活介護事業所にてフィールドワークを実施し、自己決定能力や意思表示が他と 異なる知的障害者が日常生活においてどのように関係性を構築しているのかを明らかにす る。

 

ポイント

・この国においては、障害者の介護は家族が行うことが当たり前とされてきた。

・知的障害者が地域で生きていくためには他の障害とは異なる特有の困難を有している。

・知的障害者の地域での生活を支援する作業所でフィールドワークを行う。

・フィールドワークのねらいの3つの視点

① 支援者と利用者という枠組みを超えた関係性、

② 地域住民との開放的な関係性、

③ 脱家族後の家族との関係性

 

 

Ⅱ.背景 :知的障害者支援のこれまで

1. 従来の障害者支援の在り方

2. 1960~70年代の青い芝の当事者運動

3. 知的障害者にとっての特有の問題

 

ポイント

1. 従来の障害者支援の在り方

 ここでは日本の障害者施策の歴史がつづられており、知的障害者についての施策が他の障害の背策に比較して遅れてしまった事実を取り上げています。

 1では先ず第一に、この国においては「障害者の介護は家族が行うことが当たり前」とされてきた風潮の問題を指摘しています。

この「障害者の扶養や介護は家族」を前提とした風潮はいまだに根強く残っています。そしてこれは障害者だけではなく高齢者の介護にも同様のことが言えます。この国の家族依存型介護の問題は深刻な様相を呈しており、今後は団塊の世代を中心に超高齢化の中で更なる問題を引き起こしていくことが予想されます。特に、身の回りの世話をする家族の介護疲れによる高齢者に対する悲惨な殺人事件などはその典型例だとも言えます。事件が起きる度に相談や救済の制度等が取り上げられますが、本当は「介護は家族がするもの」という風潮を払拭する意識の変革を促すことが求められているのではないでしょうか。

家族以外にもっと他に救いを求めて当たり前なのだとされる地域社会を創っていく必要があります。しかし時代は逆行するかのように「自助、共助、公助」と取られるべき方法の順位を変えてきています。確かに超高齢社会が現実のものとなった今、以前のような福祉政策が取れないことは明確です。しかし「先ずは自助」という論法はますます障害者や高齢者の家族を身動き取れないものにしてしまう恐れがあります。

次に、この風潮や意識の問題に併せて法の整備の問題を取り上げています。

戦後1949年に成立した身体障害者福祉法は知的障害者についての施策の遅れを明らかにするものでした。この国では障害と言うと身体に対する障害が主で、精神や知的障害については未だに遅れが目立ちます。社会生活上も「障害」と言うと先ずは身体的な障害が取り上げられることが多く、このことはテレビ番組等マスコミをみても明らかです。教育に関しても同じことが言え、戦後1947年に成立した学校教育法でも盲・ろうに関しては翌年に義務化がなされますが、知的障害を含む養護学校が義務されたのは1979年になってからでした。そしてその頃には皮肉にも世界の主流はノーマライゼーションになっていました。

 

2. 1960~70年代の青い芝の当事者運動

  2では、障害者の当事者運動の中でも歴史的に画期的な「青い芝の会」を取り上げています。青い芝の会についてはステップワンの研修でも何度か取り上げています。また過去には青い芝の会を取り上げたドキュメンタリー映画「さようならCP」の上映会も行っています。

青い芝の会の運動の中でも、その名が広く社会に知られるようになったのは障害児殺害事件に対する減刑嘆願反対運動でした。1970年、神奈川県横浜市で重度障害のある子どもが、育児・介護に疲れた母親によって殺されてしまうという事件が起きました。事件後、母親に同情した周辺住民や障害児を持つ親たちから、「可哀そうな母親にこれ以上ムチ打つべきではない」「障害児の入居施設が足らないのが悲劇の原因」といった主張がなされ、母親の減刑を求める署名活動が行われました。これに対し青い芝の会は「障害者を殺害した母親が無罪もしくは減刑になれば、障害者はいつ殺されるかわからない」と言った主張を掲げ、減刑運動に反対し厳正な裁判を求めました。「障害者は殺されても同情は母親にいくのか」という疑問は多くの人の心を揺さぶりました。障害者のいる家族に対する周辺住民の冷遇は明らかなのに署名に動くという、減刑嘆願の裏にある「健全者」の欺瞞への追及も厳しいものでした。「ひょっとしたらその欺瞞は自分にも」という想いから、自分も含めて周りの人たちの中でも青い芝の会によるコペルニクス的転回を経験した人は多くいます。

 

3. 知的障害者にとっての特有の問題

  3では、知的障害者にとっての特有の問題が取り上げられています。

ここではステップワンの命題である「知的障害者と地域でどう共に生きていくか」に対して植田さんは次のように書いています。

(略)

自己決定能力の概念を健常者や身体障害者を基準として考えると、知的障害者はその能力が欠けているように見えるだろう。ここで取り上げる、知的障害者らは、意思疎通が難しく自己決定能力が身体障害者と比べてけっして十分とは言えないことから、身体障害者らが確立した言語を用いて自己決定を行うことができることが前提とされる地域生活(自立生活)、及び脱家族の形を実現するのは容易なものではないと考えられる。一方で、現在、知的障害者のコミュニケーション様式やコミュニケーションの方法の研究が進められていることも事実である。これらに基づくと、知的障害者が自己決定能力がないと一概に言うことはできない。むしろ健常者や身体障害者とは異なる方法での意思表示方法を持っているように思われる。したがって、これに対して、異なる自己決定能力と自己決定のための新たな方法が必要とされる。

この事について、第Ⅲ章で紹介する施設の職員からこのような事が聞けた。施設の職員が実際に障害者から聞いた言葉として「なんで俺ら障害者は、計画がないと生きてけんのやろう。誰がつくるんや」、「あんたら健常者は、そんな計画的な生活してんのか」という言葉があった。施設の職員はこれを聞いて固唾をのんだという。障害者が計画の中で生きていくことを求められている事に対しての障害者当事者からの批判である。現在、障害者を支援する際には支援計画書の作成が求められる。この支援計画書とは、個別支援計画と呼ばれ、サービス管理責任者または施設の職員が事業所を利用する利用者等の意向、利用者等の適性、障害の特性等を踏まえ、提供するサービスの適切な支援内容等について検討して作成されるものである。上記の言葉は身体障害者が計画の中で生きていくことに対して批判をしたものであるが、知的障害者も同様に支援計画書が求められ、健常者にはない計画の中で生きていくというような環境があるように思われる。(略)

支援者の想像だけで書かれるような支援計画書は知的障害にとって必要なものなのだろうか。この施設職員Aの言葉は、知的障害者の特有の問題とされる自己決定能力、意思疎通の問題の難しさを顕著に現したものであると考えられる。知的障害者の支援は国の補助を受けて行われているため、支援計画書の提出は必要な物とされているが、できるだけそこから逸脱する形をとるのが地域生活の実現には近づくのではないかと考えられる。(略)

 

 ポイント

 ここでは身体障害者と知的障害者の自己表現の様式が異なることが挙げられていますが、知的障害者のコミュニケーションの様式や方法についての研究の進展により知的障害者に自己決定能力がないとは一概には言えないと述べられています。「健常者や身体障害者とは異なった意思表示方法とは何か」という視点は私たちにとっても希望の問いであるように思われます。

独特の意思表示方法については、家族や日常的に接する支援員にしかわからない感覚や認識かもしれません。論文の「コンフリクトとその対応」で述べられていますが、深夜に大きな声を発することによってグループホームに入居できないままになっている人がいます。彼は自分が欲しない行動については「イィー」という言葉で拒否します。また自分をよく思っていないとみえる人に対しては大きな声で威嚇します。これは周りにいる支援員にとっては瞬時に判断できることで、「きっと、この人は合わない」と思われる人に対してはほぼ同じ行動をとります。1月のグループホームの体験宿泊はスムーズにいったのですが、2月の体験に対して母親が「今日はグループホームだよ」と言ったら拒否したようです。母親によると「身体全体で拒否した」とのことです。グループホームの建物や部屋など物理的な空間の問題なのか、一緒にいる人の問題なのか、未だに不明なことも多いですが今後の最も大きな課題です。他にも作業所とグループホームでは全く違った言動をする人の事例等、意思表示の仕方については自分たちなりの研究とともに新しい研究成果等も積極的に取り入れていきたいと考えています。

また支援計画等については問題を提起しながら、制度やサービスを利用に合わせて必要最小限にとどめたいと考えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東日本大震災から11年

2022.3.12

 

 昨日で、東日本大震災から11年。

 毎年、この時期になると「また巡り来る花の季節は」を取り出します。

 

 「花を見においで」と言いし友の亡くまた巡り来る花の季節は

 

 友人の柴原洋一さんが三重を刺激する大人のローカル誌NAGI(凪)に「原発のない町で」を連載しています。2022年 春 88号は、「日本人初の宇宙飛行士」秋山豊寛さんでした。

 彼の言葉

 「おかしいじゃないかと行動する人がいることが希望で

  そういう人たちの勇気を、ぼくらが受け継いでいくこと。

  反原発は『百年戦争』ですから。」

 は、心に残ります。

 ロシアによるウクライナ侵攻が続く中、「戦争」という言葉が違った意味で反応を起こしてきます。「21世紀は人権、平和、環境の時代」ではなかったのか!!

 後世の人たちに何を言われる時代になっていくのでしょうか?

 秋山さんの覚悟が胸に響きます。

「できる」「できない」で人を分けること

2021.12.1

  学級担任をしている先生方にこんな話をしたことがあります。「あなたのクラスの中にあなたにとって一番しんどい子がいたとします。内心、この子さえいなかったらと思っていましたが、その子が突然転校したとします。ホッとしたあなたですが、何日か後には次にしんどかった子が一番しんどくなってしまうのではないでしょうか? そしてその子も何らかの事情でクラスから出ていったとしたら‥‥。次には,次には、と考えていくと,最後には誰もいなくなるのではないでしょうか?」 これは極端な話ですが、学級の中での担任が感じるしんどさは相対的なものですから、突き詰めていくと何がその差になるのか分からなくなります。序列は作ろうと思えばどれだけでもできてしまいます。要するに、絶対的な基準というものは無いということになります。

 「できる」「できない」にも同じようなことが言えるのではないでしょうか? 子どもの個々の行為の「できる」「できない」という基準は割に明確でも、全体として「できる子」「できない子」になると基準ははっきりとしません。「障害児だからできない」とされていた運動会の集団演技も、やってみたらできたというようなことは稀ではないと思います。自分の経験でも、障害児にできて健常児にできなかったことはあります。しかしはじめから「障害児だから何もできない」と思い込んでいる健常者はたくさんいます。

 今の特別支援学級が特殊学級と呼ばれていた頃、時代は経済成長の真っ直中にあり何にもまして能力という言葉が幅をきかせていました。学校は何よりも学力優先となり、高学歴のエリートを頂点としたピラミッドが作られていきます。経済成長を実現するために教育の分野では学力向上のための施策が実施されるようになり、その象徴が1960年代から始まる全国一斉の学力テストでした。この学力テストで特殊学級の子どもたちは対象外とされたため、全国的に特殊学級の設置が急増しました。我が県の学力テストの順位を上げるために取られた策でした。このことを自分自身はリアルタイムで経験しています。自分が通う中学校に、子どもたちにとってはある日突然のようにして特殊学級が誕生しました。遠足に付き添ってくれた先生が特殊学級の担当で、どうしてだったのか覚えていませんが私たちは「あの先生は偉い先生なんだ」と周りから教えられていたような気がします。それと同時に「あそこは勉強のできない子が入れられる学級」「勉強しないと、あの学級に行かされるんだぞ」とも教わって(?)いました。

 学校での勉強の「できる」「できない」、集団行動の「できる」「できない」、スポーツの「できる」「できない」等、たくさんの「できる」「できない」があります。それらはすべて健常児を基準に作られたものですから、学力テストのように「できない子」は最初から参加すらできないものを生み出していきます。「できる」「できない」のもととなる発達も健常児を基準に作られたものですから、当然のようにレベルや段階というものが設定されます。

 もう何十年も前、育児のための雑誌などが脚光を浴び始めたころ、子どもの発達を診断する表が掲載されて話題になったことがありました。子どもの生育の年齢や月数を軸に、ことばや食事、歩行や遊びの基準が示され、それができないと「発達が遅れている」とされました。そこではあくまでも健常児を基準としたレベルですから、達しない子どもは「問題のある子」というように振り分けられていきます。そして「この年齢なら、これができなくてはならない」という強迫観念のようなものを親に押し付けていきます。

 特に「ことばの遅れ」を指摘された子どもの親たちは焦り、いろいろな所に相談に行ったり病院の診察を受けるために飛び回ります。自分自身も何度も相談を受けたことがありますが、中にはある時期になって急に饒舌になった子どもがいたりして驚かされたことがあります。想定された発達の段階を経ずに一気に発達することは稀ではありませんし、そもそも発達にはアンバランスなところがあって当たり前です。

 発達診断で分けられた子どもたちは、「その子の発達のため」に学級や学校を分けられていきます。そんな中で「できなくてもいいから一緒に居させて」という思いから「障害児を普通学級で」の流れが起こります。

 

 

運動会の思い出

2021.10.21

 

 運動会のシーズンになりました。コロナ禍の中では学校行事もままなりませんが、そんな中でも各校で工夫を凝らして行われているようです。運動会には教員時代に幾つもの苦い思い出があります。

まず最初に自分を嫌だなと思ったのは、徒競走や集団演技の中で担当する生徒の伴走や演技に付き添う場面でした。みんなが見ている場面になると、どうしても大仰に振舞ってしまう自分がそこにはいたのです。いかにも「自分は一生懸命やってます」風な、熱心な教員ぶりを見せようとしているかのようでした。自分がそんなに他人の目を気にするとは思ってもいなかったのに、演技をしているかのような自分に嫌悪感を覚えました。その姿は「ダウン症のA君といて心が洗われた」と発言した教員と何ら変わりません。今でも運動会を見学していて、懸命に(?)介助している教員を見ると何か切なくなってしまいます。

障害児にぴったりと寄り添って介助をする、それが仕事に熱心な証なんだと思い込んでしまうことは一杯あります。しかしそれが逆に障害児の自立を阻んでしまうことになることがあります。これは今も同じで、障害サービスの中で「支援」が手厚くなればなるほど,障害者は何もすることがなくなってしまうといったことはよくあります。

以前、今でいう学校支援の人に「介助が必要でなくなることが、つまりあなたの仕事がどんどんと減っていくことがこの子の自立につながるんです。だからどんどんと休んでくださいね」と言ったことがあります。ぽかんとしている人が多かったですが、中には納得して自然に付き合ってくれる人も出てきました。

運動会を見学に行くと、必ずといっていいほど「学校の中で障害児がどう見られているのか?」を考えさせられる場面に出合います。多いのが、徒競走をはじめとする個人種目で最後にゴールする障害児に大きな拍手がおくられる場面です。これは障害児に限ったことではないので敢えて文句を言うようなことでもないのでしょうが、「これは何だろう?」と心が揺らぎます。「大きな拍手を!」などという放送があると余計です。普段は冷たい視線を送られ、時には差別的な言動にさらされ辛い思いをしている子どもたちに、みんなが見ている場面だと「温かい気持ちや思いやり」を見せようとするかのような意図には辟易します。

学校行事のたびに障害児を担当する教員は、職員会議で普通学級の教員集団とぶつかります。要するに「障害児をどう普通学級の集団に入れていくか」の問題が発生するのです。先日、退職してボランティアでステップワン作業所に来てくれている元小学校教員と昔話に花を咲かせました。彼女にも運動会で集団演技に障害児をどう入れていくかで闘った経験がありました。「集団演技に同学年なんだから中に入れてよ」という何でもない意見が否定されるのです。「演技が乱れるから」「美しくできないから」「みんなが迷惑するから」「危険だから」等々、これでもかというくらいの拒否反応です。

昔、新しく赴任した学校で、この問題でもめて大喧嘩になったことがありました。それでも圧倒的少数でしたが、味方になってくれる教員がいたことは救いでした。大きな声を張り上げる自分の陰で、少しずつ理解者は増えていきました。それでも圧倒的少数には違いありませんでした。集団演技が思ったよりうまくいった時、こちらに届いてくる温かい視線には目頭が熱くなりました。

 

その頃からでしょうか、「共に生きるってしんどいこと、だからこそすべてを引き受けよう」と言うようになったのは。あの時代から何が進んだのでしょう? 誤ったインクルーシブ教育に翻弄される学校に、現場はより一層しんどくなっているのではと危惧しています。「共に生きるはしんどいこと」それを引き受ける想いと熱がほしいと願います。

 

 

 

 

 

俺らは心の洗濯機か!!

2021.9.29

 

 年に一度の全国教育研究集会で、障害者の人たちが「なぜ不規則発言や野次を繰り返すのか?」と不思議に思って近づきました。というより正直なところ障害者自身の声がよく聞き取れなかったので、何を言っているのか確かめたくて近くまで行ったのです。

そこで耳にした発言の数々は驚きの連続でした。「一体いつまで訓練をしなきゃならんのか!」という怒りに満ちた声を初めて聞いた時、その通りだと納得しながら、それまで全く気づくことのなかった自分を恥じました。とっくに成人した大人の「いつまで指導されなきゃならんのか!」「死ぬまで発達しなきゃならんのか!」の言葉には怒り、悲しみ、悔しさ、辛さ‥‥、言葉では表せないような感情を覚えました。

その日、それまで大人の障害者の本当の思いや気持ちをきちっと聞いたことがなかったということに気づきました。田舎の街でボランティアをすれば、感謝の言葉はあっても本気の話、本音の話は聞けません。聞こうにも、障害者の人からすれば「そんな気になるか!」ということだったのでしょう。何も考えずによく気楽にやってきたもんだと、つくづく恥ずかしく思いました。

   最初は反感を覚えた発言も丁寧に聞こうとしたことで、時間の経過と共に印象は全く違ったものになっていきました。「不規則発言」という言い方は発達保障論の人たちの表現でしたが、聞いているうちに何故「不規則発言」になるのかが分かってきました。それは会場内で圧倒的少数の人間は発言しようにも発言できない仕組みになっていたのです。司会は多数を占める人たちの報告や意見ばかりを優先して取り上げ、圧倒的少数の人たちは発言しようにも指名してもらえなかったのです。そのため大声を張り上げたり,間断なくしゃべったり、立ち上がって物を振り回し指名を得ようとしていたのです。何も知らなければ,それは妨害工作にしか見えないし,うるさくしか感じられなかったのです。

   忘れられない言葉があります。ある会場で、一人の女性教員が「天使のような心を持ったダウン症のA君と出会って心が洗われた」と発言したところ、「俺らは心の洗濯機か!!」という言葉が返されたのです。見事な「不規則発言」です。この皮肉に満ちたユーモアのセンスには思わず笑ってしまいました。しかし障害児を「純真素朴」「心がきれい」「まじめで頑張り屋」等で表現する言葉はその時の会場だけでも溢れんばかりに使われていました。なぜ障害児だけが「純真素朴」で「心がきれい」で「まじめな頑張り屋さん」でいなければならないのか? なんの疑問もなく一方的なイメージを作り上げて障害児を美化しようとしてきたのか? 自分の中に同じようなことはなかったか? 障害者の「不規則発言」の数々は、自分の目を覚まさせてくれました。

   その後も、特殊学級担任の陥りやすい心情を見事にひっくり返してくれる発言が続きました。自分が初めて特殊学級を担任して、とにかく学級を同僚や親に認めてもらいたいがために子どもたちの虚像を作り上げたり、言葉で美化してしまうような場面があったことを思い出しました。しかしそれは子どもたちのためというより、自分のため、自分を認めてもらいたいがためのものでした。子どもたちのために一生懸命奮闘する自分を認めさせることにどれだけ力を注いだか? 

「不規則発言」の向かう先は自分自身だったのです。

 

 

「共生」とは何か?

2021.9.22

 

   パラリンピックに絡んで「共生社会」という言葉が使われていることから、中日新聞の大森さんから「そう言えばあなたも『共生』を使っていますよね」という問いかけをいただきました。フェイスブックには「共生の原点」というメモのようなものを、北村小夜さんの「一緒がいいならなぜ分けた」という本を紹介しながら書きました。少し反響はあったみたいなので、共生という言葉の歴史や使われ方の変遷について自分が知っている限りのことは少しまとめた方が良いと思って書いていきます。

   自分が「共生」という言葉を使い始めたのは、当時は「特殊学級」と呼ばれた学級の担任をして数年後、1980年代のことです。担任になった当初は、「とにかくこの生徒たちに力を付けたい」「社会で通用する生徒にしなければ」というような思いで、一生懸命勉強をしました。本は手当たり次第読んだし先進校などの見学にも行きました。しかし結局は何一つ役に立つことはありませんでした。途方に暮れていたとき、わずかな情報を頼りに出かけて行ったたのが全国規模の教育研究の場でした。そこで「共生」という言葉に出合います。

 

  1980年代、障害児教育の研究の場は「共生共学論」派と「発達保障論」派に分かれていました。

  発達保障論の人たちは、「どんなに障害が重くとも、すべての障害者は人間として発達の可能性を持っている」「発達は適切な教育があって実現していけるものであり、医療や福祉と正しく結びつけた教育が必要である」といったことが持論でした。

  それに対して共生共学論の人たちは、「障害のある子もない子も同じ地域や学校で共に育つことが差別からの解放につながる」「どの子も普通学級で同じように共に育ち共に学ぶことが基本だ」といったことが持論でした。

  最初「どの子も普通学級で」という共生共学論の人たちの話を聞いた時、『それは自分の学級では無理だ。もっと障害の軽い子どものことだ』と感じ反発を覚えました。また議論の場なのに『不規則発言』が多く、野次と怒号の連続に嫌気がさしてきました。それに対して、発達保障の人たちの方は圧倒的に多数でしたし、丁寧に真摯に議論に向き合っている様子で好感を持ちました。

  しかし、この印象はわずか数時間で全く違ったものになりました。障害者自身の声で「養護学校なんか行きたくなかった」「おれらは分けられたくなかった」を聞いた時、全身が震えるような恥ずかしさを覚えました。自分は何をしてきたんだろう‥‥と。

 

 

   今も『共生共学の流れが三重にもあった』と,過去形のような形で話をすることがあります。インクルーシブの誤用が目立つ中、『共に生きる』の歴史を振り返りながら書いていきます。

改めて「『福祉』って何だろう?」って考えました。

 

 

 「月刊福祉』1月号の鼎談「社会福祉のこれからと『地域共生社会』づくりの展望」を読んで、元厚生労働事務次官の村木厚子さんのお話が余りにも衝撃的でしたので紹介します。

(前略)

村木 私は今、若年女性の支援に関わっていますが、日本の制度が縦割りになっていることがよくわかります。使える法律は児童福祉法、DV防止法、売春防止法ですが、非常に厳しい状況の家庭や学校から逃げ出した子をサポートする手当がなく、どの法律にも当てはまらない子が数多くいます。年齢は16~18歳が圧倒的に多く、制度的な穴を実感します。その子たちはJKビジネスに流れてしまうケースもあり、『日本のすべての公的な福祉はJKビジネスに負けている』という言葉を聞いた時は大きなショックを受けました。しかし、女性を勧誘する彼らの行動を見ると、まさに福祉の理想形です。まず繁華街に出てアウトリーチをし、困っている子を見つけます。そしてごはんを食べさせ、泊まる所も用意します。そのうち『ぜひうちで働いてみない?』と仕事を提供し、『君はよくやっているね』と褒めて、自尊心を回復してあげる。まさに個別的、包括的、継続的な支援です。

(後略)

 いかがでしょう? 私は頭を打ち据えられたような気分になりました。

 村木さんにこの話しをしたのが誰なのかはわかりませんが、おそらくJKビジネス業界かその辺の事情に詳しい人なのでしょう。しかしこれは福祉に関わる人たちへの痛烈な皮肉になりますし、いま行われている福祉についての議論は何なのか?と考えさせられる言葉にもなります。

 街に出てアウトリーチをし、困っている人を見つけ、困っていることは何かをきき、相談に乗り、物的なものや仕事をはじめ様々の提供の品を用意し、一緒に頑張ろうと励まし

うまくいけば「よく頑張った」と讃えて自信を取り戻させる。そんな見事な「福祉社会」の典型の場面が目に浮かびます。しかし現実は、街に出てアウトリーチをするわけでもなく、未だに相談に来てもらうことだけが中心のような福祉の世界です。待つ相談ではなく打って出る相談体制を!! と訴えるのですが、なかなかそうはいきません。特にコロナ禍の今、相談すらできなくなってしまっている人たちが増え、困って二進も三進もいかなくなった人たちが次々に生まれてきています。

 個別的、包括的、継続的、総合的、重層的、次々と支援に新しいことが追加され、言葉が一人歩きをしているような気さえします。これから始まる福祉は、是非ともナマの生活に寄り添ったものになっていって欲しいと願うばかりです。

 あらゆる問題の入り口は「相談」です。この相談体制の理想形を求めることから始めていきたいと痛感した村木さんの話でした。

第5回分

第4回分

第3回分

第2回分

中日新聞日曜版「ニュースを問う」シリーズ

「山口さよさんの在宅41年」を載せていきます。5回分すべてではなく、うまくまとめて

ダイジェストをと考えたのですが、山口さんにも記者さんにも失礼だと思ったのでそのまま載せます。ただカメラ技術が拙いので、うまく読んでいただけるか心配です。コピーの必要な方はご連絡ください。以下は第1回です。

 

組まない人の強さ

 

 

中日新聞日曜版「ニュースを問う」シリーズで「山口さよさんの在宅41年」が5回にわたって連載されました。重度障害者の山口さんは現在74歳、自力でボランティアを募り四日市で一人暮らしを続けてきた。

 

山口さんと交流があったのはもう20年以上の前のことなので、ステップワンでも知る人は少ない。とてもユーモアのある人でお酒も好きで、とにかく話がおもしろかった、痛快だった。その頃から山口さんは「人と組まない」という印象が強かった。当時は障害者運動が活発な時代だったので、ある団体の名を挙げて「入らないの?」と聴いたことがある。随分と昔のことなので記憶が定かではないが、誘いはあったけど入らなかったという答えだったと思う。

 

組むことでしか動いてこなかった自分に、この強さはない。しかし家族ではない人と家族と同等の関係を創っていきたいと願うのは同じ。学生の頃に介助をしてきた女性は育児に追われる今も時間の都合がつけば訪れる。「さよ宅は帰る場所、私の居場所になった。血はつながっていなくても家族になれるんだ」と語る。この記事は本当に素敵なのでホームページにエピソードを掲載していきたいと思います。

 

 

 「団体交渉できない。固まらなあかんから。だから、交渉は一人でするの。団体は理論で固めるけど、私は私らしく生きることが社会運動と思っているから。ばらばらで、草を生やす方が自分にはぴったり。私は私で闘うの」(山口さよ)

 

 

 

 

自分を飾ることをしない人

 

宮崎 吉博

 

 ステップワンで「障害者」と呼ばれる人たちと一緒にいることの魅力の一つが、利用者が「自分を飾ることをしない人」にあるのは間違いありません。言い方によっては「自分を飾ることができない人」となるでしょうし、「自分を飾ることを知らない人」ともなるでしょう。しかし私の中では「自分を飾ることをしない人」になります。

  いま人生の終盤を迎え、「『自分を飾る』とはどういうことなのか?」と「そのことによって失われるものは何か?」を考えるようになりました。自分を飾ることは「この歳になってもまだ…」と恥じるくらいたくさんあります。振り返ってみると、ずっと自分を飾りながら生きてきたように思います。それはそれで仕方がないというか当たり前のことなのでしょう。逆に言えば「飾る」ことによって社会人として生活を送れてきたようにも思います。よく「ありのままに」とか「自然体で」と言いますが、ありのままに自然体で行動していたら自分と社会の関係は崩れていたかもしれません。

  しかし飾ることに重きを置く生活で良かったのか、という思いにもとらわれています。過度に飾ってきたのなら、そしてそのことを恥ずかしく思うなら、少しずつでも変えていければと思います。

 

障害者の支援計画を立てるということは、自分を飾らない人に飾ることを無理強いしているのではないかと感じることがあります。昔、障害児教育の研究会で「健常者は毎日の生活で計画なんか必要ないのに、どうして障害者には大人になっても計画が要るのか!」という障害者の憤りに下を向くしかない教員たちでした。「俺たちは一体いつまで訓練をしなきゃならんのか! 指導されなきゃならんのか!」という怒りが胸に刺さりました。

  障害者福祉サービスでは目標や計画の作成が必要とされます。利用者本人の声を聞き、承認されることも求められます。それが難しい時には「おそらく」という推測で記され、代理の人の署名が要ります。本人は本当にそう思っているのか? 間違ってはいないのか? どうすれば確かめられるのだろうか? それこそ揺れる毎日です。

  毎日の生活では綿密な計画や詳細な記録より、利用者がいる間は支援そのものに時間を割きたいと考えています。以前、他所で「家庭との連絡帳を書くのに時間がとられ利用者をみられない」という話を聞いたことがありますが、それこそ本末転倒だと思います。             

  作業所やグループホームの生活の中で、「どうしてこんなことになってしまうのか?」と感じる出来事には枚挙にいとまがありません。わからないことの方が多いので揺れる、惑う、ぐらつく、立ち止まる、茫然となる、そういったことを繰り返しています。ただ、そんな揺れる日々の中で、一瞬つながったと思う場面があると心は踊ります。どうしようもなく途方に暮れて諦めた時「おい、どうした?」みたいな感じで視線を感じることがあります。飾らなくなった時に生まれる共感のようなものがあるような気がします。

  ステップワンの活動や利用者のことを知ってもらい覚えてもらうために、ホームページやフェイスブックでの発信を始めました。そこではステップワンをありのまま伝えようと思うのに、どうしても飾ってしまいます。そのことで「飾る」ことについて考えるようになったので、こんなことを書きました。

 

 

追伸

 

 新型コロナウイルスの感染防止で「三密」と「濃厚接触」が日常用語のように定着してきました。この二つの事態から逃れられないのが障害者の施設で、最も休業要請から遠い施設つまりは「閉めてもらっては困る施設」になります。そこには根深い障害者差別があることにどれだけの人が気づいているでしょうか?

  この新たな事態で、世の中のいろいろなことが見えてきました。「飾り」の剥げてきた人も見えてきました。これまでになかった連帯も見えてきました。新しい世界を展望する中で何が真実なのかを見極めていきたいと願っています。

 

 

 

「揺れる」ということ(その2)

 

 札幌にあるすみれ会に惹かれるので、もう少し引用します。

 

 「すみれ会の実践と宮岸氏の文章から、『揺れる』ことがとても重要だと感じる。ときにむき出しの感情や予想もつかない行動に対し、ただ制することをしたりしない。なぜそんな風にするのか、しんどいのは本人なのではないか、と真剣に考える。そこに流れる外出してきた患者の苦しみを受けて宮岸さんも辛くなり、悲しくなる。言葉ではそうは言わないが、トイレに籠っている人にもその宮岸さんの感情が伝わり、いつしかドアを開けて横に座ったりするのだそうだ。『汗も涙も』相手は感じ取り、そこで辛さの共有がなされているのである。このような場面は精神科病院でも障害者の入所施設でも頻繁にあるとは言えない。むしろそんなに感情を出すような職員は専門職として一人前ではないかのように評価されているのではないだろうか。」(三田優子さんの文章 季刊福祉労働)

 

 ステップワンにも家庭や学校や施設で、その言動を制されてきた人たちがいます。そのことがトラウマになって、それまでとは違った行動をするようになってしまった人もいます。親の推測だけが頼りというだけなので、今となっては事実関係を明らかにすることには無理があります。利用者の一部の人は言葉を使わないだけに、何が真実なのか隠されてしまうことが少なくありません。

 「しんどいのは、苦しいのは、本人ではないか」 そのことを認めることができるようになって、支援をする側も変わってきました。この何年かでステップワンが大きく変わったのもそのあたりにあると思っています。ステップワン創立時代の理念が薄くなっていった危機感から立て直しが始まってまだ数年です。週に一度の職員ミーティングは研修の場にもなっています。これからも『揺れる』ことについて考えていきたいと思っています。

 

「揺れる」ということ

 

 季刊「福祉労働」165号に「意思ってなんだろう」というテーマで特集が組まれています。その中で三田優子さん(大阪府立大学大学院人間社会システム科学研究科准教授)が「津久井やまゆり園入所者への『意思決定支援』何のため? 誰のため?」という文を書かれています。

  「支援者の心が『揺れる』ことの重要性」の小見出しの文中に、札幌にあるNPO法人すみれ会の理事長であり精神保健福祉士でもある宮岸真澄さんの言葉があります。これに惹かれたので転載します。

 

 「正直言って、障害者本人の困難な状況に心が揺れることがある。よくこんな困難な状況で生きてきたと思うことがある。私は揺れることを大切にしていきたい。私の心が困難な状況を感じて震えているのだ。そういうことがなくなるとただのやっつけ仕事になってしまうと思う。仕事に魂が入らなくなってしまうのだ。精神保健福祉士の仕事は決してかっこうのいいしごとではない。愚直なまでに相手に向き合い、愚直に手を尽くすことである。不器用であっていいのだ。スマートな援助は中身が怪しいと思っている。汗も涙もいっぱいかかなくてはいけない。(中略)援助は一方通行ではないと思う。必ず返ってくるものがある。」

 

 知的障害の重度と呼ばれる人たちとの生活で、心が揺れることが多い毎日です。どうしていいのか、わからない。昨日はうまくいった筈なのに、今日はどうしてもうまくことが運ばない。そんな場面の連続に自分の稚拙な言動を棚に上げて、ついつい他人の所為にすることがないとは言えません。どうしてこんなことするのか? どうしてこんな声を出すのか? どうしてこんな無理を言うのか? 「どうして? どうして?」の連続が重なることも多い毎日です。しかし、ある段階や場面でふっと何かを観念したとき、すんなり諦めに行ったとき、その人と「つながったと思える瞬間」があります。これは不思議な感覚です。そのとき、限りなく愛おしくなります。時に家族を越えたかのような錯覚に陥ることすらあります。

  揺れる、惑う、ぐらつく、動けない、立ち止まる、茫然となる、そういったことを繰り返しながらつながっていくのだと思います。揺れる日々に中で一瞬つながったと思う場面があると心は踊ります。愚直さや不器用、時には鈍感ささえ必要な気がします。

 こういったことを人にどう伝えていくのか、大きな課題です。

 

意思ってなんだろう?

 

      季刊「福祉労働」165号 特集「意思ってなんだろう」を読んで

 

 言葉を使わない彼にとって「意思」ってなんだろう? 

 ずっと思い続けているが、答えはない。自分の推測や憶測だけで、ひょっとすると思い込みで間違った判断をしてはいないか? 

 「支援」という言葉だけが独り歩きをしているような危うい世界。ただ関係性だけが頼りの世界。どこまで彼とつながれるのか…、または、つながれないのか?

 自分のことだけを考えても、「自分の意思ってなんだろう?」と思う。何かをする時に常に「確固たる意思」(この時は「意志」か?)があって行うばかりでない。日常的に「意思」と呼べるだけのものをもって行動することは、まずない。広く「意思」を捉えて

「思い」とか「考え」と言い直してみても、そんな言葉で表現するほどのものをもって行動するわけではない。

 しかし今、「意思決定」などという言葉が使われ始めている。自分の思いや考えですら確たるものがないのに、どうして他人の「思い」や「考え」を推し量れることができるのか?「意思決定支援」という言葉が流行り始めている。またしても言葉に翻弄される時代が来るかと思うと、気が重くなる。

 

 言葉を使わない人のニーズを勝手に決めつけて書き込んである記録を見て、非常に腹が立ったことがある。「彼が本当にこんなことを言ったのか?」と問うても、書いた本人は俯くだけ。後日、彼の両親に伝えると「息子がこんなことを言ってくれれば…」と慨嘆。

 こういったことを差別だと感じない感性で相談や支援が行われている現実。昨日、相模原障害者殺傷事件の初公判があった。結果は報道の通り。言葉もない。

 

 

熊谷晋一郎さんの文章「事件の後で」

 

 相模原障害者殺傷事件の後、「外に出るのが怖くなった」「不意に襲われるのではないか」という障害者が持つ思いには実感が伴いませんでした。そういった思いを持たざるを得ない状況に自分がないことは明らかなのですが、それにしても鈍感でした。熊谷さんの文を読んで、その思いがひしひしと伝わってきました。

  熊谷晋一郎さんは相模原障害者殺傷事件の報道に触れた直後から体調不良になります。以下は「事件の後で」(「現代思想」緊急特集 相模原障害者殺傷事件2016.10)からの抜粋です。

 

 「相模原の事件報道以降、気持ちが落ち着かない理由の一つは、リハビリキャンプでの記憶が侵入的に思い出されるからだということに、今朝、なんとなく気が付いた。自らも障害を持つ治療者が、こっそりと寝た切りの私たちを足で踏みつけるときに感じた無力感と恐怖心がまとわりついて離れない。」

 

 この体験が物語るのは、寝た切りの状態で何もできないことの無力、悔しさ、絶望… 

 それがどれほどのものであるのか想像しかできませんが、想像しても限界があると思います。身動きの取れない状況で他人から足で踏みつけられる、多くの人はおそらく体験することなく、想像することすらなく一生を終えるのだと思います。熊谷さんは、こう続けます。

 

  「住み慣れた街の景色が変わって見える。ふいに襲われないかと、信頼の底が抜ける。先人たちが何十年もかけて踏み固めてきた地盤が、大きく揺らいだように感じて、めまいがする。怒りを通り越した無力感で、内臓ごと落ちていくような脱力感を覚える。

  今の願いは、もう一度、確かに私たちの受け継いできた『生きていてよい』という思想を、仲間たちと確認し合いたいということにつきる。」

 

 「生きていてよい」という思想の確認。そのことを改めて確認しなければならない状況。ここまで揺るがせてしまったのかと、無力感も極まる思いです。同じ街に住む人たちから、「街に出るのが怖い」「不意に襲われないかと思う」といった話を聞いたときに、なぜもっと深く話を聞かなかったのかと後悔しています。同じような体験が内にはあったのだろうと思います。

 

 篠原睦治さんの問いかけ

 

 ただ、こういった思いや体験を自分なりに理解し共感するにしても、やはり篠原さんの指摘が気になります。

 「外に出るのが怖い」とか「不意に襲われないか」とかの思い。しかし、「その思いで大丈夫なのか?」と子供問題研究会の篠原睦治さんは問いかけます。

  殺された人たち、やまゆり園という囲われた場で生活する「最重度知的障害」の人たちと、街の中で車椅子に乗っている「知的に優れている」人で相談にも乗っている村上さんを一括りにしていいのか、ということなのです。自分自身の身の周りで言えば、ステップワン作業所とグループホームで暮らす「最重度知的障害」の人と、「外に出るのが怖い」というような意味のことを言われた「知的に優れたリーダー」知人と一括りにしていいのかということになります。やはり篠原さんと同じような思いを、というか違和感を感じたのは事実です。

  「障害者」という括りは一体何なのか? 街中で生きるということに関しては、知的に優れた障害者は健常者と同じになるのか? では「健常者」という括りは一体何なのか?

 

 自分自身も齢をとっていくに従って色々な不自由が生まれてきている。そんな中で「みんないずれは障害者になるというか、最後は障害者なんだよね」という言い方をしてしまっていることに、最近「これはどうなんだろう?」と思うようになってきた。高齢と障害を一緒にしてしまっていいのだろうか? 現在、障害者として「いる」人と自分を一緒にしてしまっていいのだろうか?

 「障害者」と「健常者」など、さまざまな括りで、二分化する、二極化することについて考えていきたいと思っています。

 

 

 

 

「知的障害」ということ・「健常者-障害者」ということ

 

~“有能な”者と”無能“な者という分け方~

 

 

 

 篠原睦冶さんの「70代、ここの場所から」に掲載されている「『知的障害』ということ・『健常者-障害者』ということ」は、20176月に明星大学で行われた日本社会臨床学会総会でのシンポジウムの記録です。ここで篠原さんは「津久井やまゆり園で起きたこと」について次のような発言をします。

 

 「今回の事態のなかで、気心の合う友人で、街なかで暮らし働く“有能な”障害者が、『ぼくも、しばらく外に出るのが億劫だった』と言ったので、私はショックでした。本当は、彼と、施設に隔離、保護されている”無能な“障害者に起こった事態を、『街の中』と『施設の中』、『”有能な“者』と『”無能な”者』といった対比的な現実を凝視して語り合いたかったのですが、彼は、早々と、『障害者』として『殺された』側にアイデンティファイしてしまったのですね。」と語り始めます。

 

 この文脈で篠原さんが話し始めたのは20173月に行われた子供問題研究会の「春の討論集会」が最初ではないかと思います。子供問題研究会の機関紙「ゆきわたり」に掲載された「正月、電動車いすで、厄払いに行った時」を書かれた村上健一さんにお会いしたくて上京した時のことです。村上さんは集会のパネリストで、その中で「(事件後)外に出るのが怖かった」と発言しました。それを受けて篠原さんは怒ったような口調で「村上君のその感じ方って大丈夫かな?って思うのね」と返し、更に「村上君までもが怯えちゃって、どうしたんだろう?って思ったのね」と続けました。そのことを今も鮮明に覚えています。

 

この受け答えを聞いていて、はっとしました。同じような思いをした障害者の話を聞いた時、篠原さんと同じように少し違和感を感じたからです。それは「外出するのが怖い」とか「外に出るのがが億劫になった」と話す人がおそらく「“有能な”障害者」であったからにほかありません。「あなたがですか?」というのが率直な感想でした。

 

その時「やまゆり園の人とあなたは違う」と思い込んでいた節があります。どうして「違う」のか? 「彼がきっと同じような状況に置かれることはない」と思っていたからです。では、なぜ同じような状況に追い込まれないと思ったのか? それはまさに「“街の中”の障害者」と「“施設の中”の障害者」という二分割の概念が自分の中にあったからにほかありません。どうして「街の中の障害者は安全」だと思い込んでいたのか? 

 

それは自分自身が街の中にいるからなのでしょう。街の中の障害者は自分と同じ状況にあり、街の中で一緒に居る限り心配はない、街の中の障害者は自分と同列にいる、と思い込んでいた節があります。

 

ただ、この事件を巡る様々な文章の中で最も心に残ったのは熊谷晋一郎さんの『事件の後で』(2016年「現代思想」緊急特集 相模原障害者殺傷事件)でした。この文章で『外に出るのが怖くなった』という障害者の言葉が胸に刺さるようになりました。(つづく)

 

 

 

 

「ほどなく、お別れです」

 

 

 

「ほどなく、お別れです」という書名に魅かれて、長月天音さんの小説を読んだ。週刊誌の書評で、霊感云々とあったので若干躊躇したが、とにかく書名に魅かれた。

  最近は○○ホール等の名称の葬儀専門会場での式が多いが、その形には正直なじめないものを感じている。特に司会の方の独特の語り口には閉口しているというのが実感で、時には「とにかく早く終わってくれ」と願うことが、逝かれた方には申し訳ないがある。逝った方も不本意ではないだろうかと想うことすらある。

  そんな想いもあって葬儀会館を舞台にした物語には実態を知りたいといった興味もあり、とにかくどんな物語であれ読んでみようと想った。特に「ほどなく、お別れです」という言葉には一種独特の何か奥深いものを感じてしまっていた。いよいよ形ある肉体が目の前から消えるという事実が、この言葉で否応なく現実味を帯びさせる。時には「もう少し待ってほしい」という想いに駆られることもある。家族や友人にとっては言葉に言い尽くせない悲しみや辛さを感じる瞬間でもある。「ほどなく」という言葉には、その現実に対して迫る感じを薄める雰囲気をかもしだしているような感じがあって、嫌いではない。

 

この物語は清水美空という大学4年生の女性が、以前のバイト先の葬儀場からスタッフ不足で呼び出されるところから始まる。就職活動がままならない彼女は、坂東会館という葬儀場にバイト復帰をする。ここで様々な体験をする話が3話続く。幼い子どもや出産を間近に控えていた妊婦の言葉に表せないような辛い死が描かれる。

  美空にはいわゆる霊感と呼ばれるものが備わっている。「あまり口外することではないが、私にはちょっとした能力がある。に敏感なのだ。他人の感情が煩わしいくらいに伝わってきたり、その場に残っている思念を感じてしまったりする。それは生きている者に限らず、死者のものも含まれる。一般的に霊感と呼ばれるものだ」と描かれ、それは葬儀場でのアルバイトには不都合なものであるに違いないことはすぐに分かる。そして美空と同じような能力を持った僧侶の里見という男性が現れ、さらにこの二人のように霊感はないが人の気持ちを酌み取ることには彼ら以上の力を持つ漆原という葬祭ディレクターも登場する。この三人が様々な死と向き合い、亡くなった人の想いを丁寧に酌み取りながら、残された家族に伝えていくという物語である。ただ不思議なことの連続なので、残念ながらこういった現象をにわかには信じられない自分には違和感が残る。

  しかしとにかく葬儀場を舞台にした物語は珍しく、お通夜や葬儀の舞台裏のようなものを知ることができる。また自分でも不思議に想っていたことが印象的に描かれてもいる。実は食欲のことである。自分なりに長く生きてきて、「こんな時に食べるか?」と想う場面で欲の有様を見ることがある。人は絶望的な状況の中で、先の視えない不安に襲われているときは食欲を感じないのに、結果が見えると途端に食欲が湧くものだと、つくづく想う。絶望的な失恋をした時、やたらと食欲がわき自分なりに「反省? 後悔?」したことがある。

 同じように葬儀場で出された料理が空になっているのを見て美空は、「空になった食器を見るたびに感じるのは、生きている人はどんな時でも食べなくてはいけないということだった。たとえこのような場所でも」と想う。こういった経験は誰にもある。こんな辛い時に、こんな悲しい時に、と想いながら、それでも人は食べ、生きていく。それがある種の逞しさであり、鈍感さなのだろうと想う。

 

この書の帯には、ベストセラー「神様のカルテ」の著者である夏川草介さんの推薦文があり、そこにはこう書かれている。「私の看取った患者さんは『板東会館』におねがいしたいです」

 自分ももう遠くはない時期に、「ほどなく、お別れです」と残った人たちに告げられて旅立っていくんだろうと想うと、この言葉が途轍もなく愛おしく想える。

 

 

 

 

フェイスブックで紹介した村上健一さんの「ゆきわたり」1月号掲載の文章です。

「ゆきわたり」は元和光大学教員の篠原睦冶さんが代表を務める子供問題研究会の機関紙です。篠原さんは学生さんたちと何度も伊勢志摩地域を訪ねてみえ、ステップワンとの交友も深い方です。村上さんは教え子に当たり、一昨年の子供問題研究会の「春の討論集会」でお会いしました。とてもステキな方で、皆さんに会っていただきたい人のお一人です。

 

 

 

犬も歩けば棒に当たる?!

 

村上健一(東京・町田市)

 

 

 

 新年明けましたね。今年も良い一年になりますように。喪中なのでしっかりとした挨拶は出来ませんが、『ゆきわたり』ファンとして、暮れにこんなことがありましたよ的なエッセイを贈ります。

   犬も歩けば棒に当たる。

   その意味は、何かしようとすると災難に遭う。

   もしくは、出歩けば思わぬ幸運に出会うことの例え。

   先日、職場の忘年会の帰りのこと。

   僕の足は電動車イスだが、駅前で飲んでいて自宅まではかなり遠いので路線バスに乗って帰ることに。

   バス停のそば、列から人二人分くらい離れたところ、目立つ場所でバスを待つ。

   ずいぶん前に、列に並んでいたら「見えなかったよ、こっちも乗せるのに準備があるんだから」と運ちゃんに言われて以来、僕はこうしている。

   ほどなくしてバスが来る。

   見えなかったとは言わせない、僕乗りますからアピールは、頭を上下左右させたり、目を合わせてくれるまで運ちゃんの目を見離さなかったり。

   バスが停まると中扉が開き、お客さんが乗り始める。

   お先にどうぞと、お客さんたちに目配せをする。

   その間、運ちゃんは僕を乗せる位置のイスを跳ね上げてスペースを作り、続けてバスの中扉の床下に収納されているスロープを設置する。

   スロープの設置が出来たら車内へ。

   準備をしていたスペースへ招かれると、ベルトやスロープで車イスを固定をしてもらうのだが、僕はいつもこの時に二つのお願いをする。

   一つ目は、行き先を運ちゃんに伝え、降りるときにまたお手数ですがお願いしますと伝える。

   車内の「降ります」ボタンは、手も使えない僕には押すのが難しいからだ。

   二つ目は、支払い用のICカードをタッチしてもらう。

   これも理由は同じで、僕は首からかけたポーチにカードを忍ばせ、なるべくスムーズに事が運べるように準備をしている。

   この日も、出してくれたスロープを上りながら運ちゃんに行き先を伝えた。

   「すみません○○までお願いします」

   いつもだと「承知しました」とか、「○○ね、あいよ~」とか返事が返ってくるのだが、無言。

   無愛想な運ちゃんは別に珍しくない。

   接客は苦手だけど運転は上手って運ちゃんは結構いるし、逆に愛想はいいがやたら運転はきついって運ちゃんもいる。

   実際、前者の運ちゃんの方がありがたかったりする。

   う~ん、スロープをしまい終わったらもう一回行き先伝えとこうかな。

   運ちゃんは、スロープをしまうのに手こずっている。

   慣れてなさそうな感じはあった。

   耳を赤くしながら必死そうだったし、お客さんの隙間から見える姿に申し訳ないなと思いながらも、こっちに来たらすぐにICカードをタッチしてもらうよう、僕は心の準備を。

   あれ?

   運ちゃんを見失った。

   次に運ちゃんが見えたのは、前方で、運転席に乗り込もうとする背中だった。

   え、ちょっ、え!

   慌てて心のチャンネルを切り替える。

   「すみません、どなたか僕のICカードをタッチしていただけませんか?」

   声を出すと、目の前にいたおっちゃんが僕の方を向き、手助けしてくれそうな感じをかもし出す。

   ありがたい、僕は首にかかっている首かけの前ポケットにICカードがあることを説明して、取り出してタッチしてもらうよう伝えた。

   「えっと、首かけって何だ?」

   「あ、僕の首にぶら下げているこの黒い小物入れ、ポーチです、お腹の前にある」

   「えっ、ポーチ、お腹?」

   あかーん、このおっちゃん酔ってるわ。

   って思ったけど、酔っていたのは僕もだった(笑)

   気を取り直してもう一回ってしていると、近くに座っていたおばちゃんが助け舟。

   「こちらに入っているんでしょ?」

   そうです天女さま。

   カードをタッチしてくれたおばちゃんに、丁寧にお礼を。

   間に合ったと安堵していると、さっきのおっちゃんが話しかけてきた。

   「いやぁ酔っててゴメンな」

   「いえいえ、僕もですから」

   「兄ちゃんはどこで降りる?」

   「○○です」

   「じゃあおっちゃんの方が後だから、降りるボタンを押すからな」

   「あ、それは助かります」

   行き先は運ちゃんに伝えてはいたけど、一応ね。

 

   すでにバスは動き出していた。

   車イスの固定がまだだったのは分かっていたが、この混雑した中、もう一度運ちゃんを呼んでってのもあれだし、動いちゃっているし。

   実際、固定具を留めないことはたまにある。

   時間がかかるのと、電動車イスは重量があるので、よっぽどの運転をされない限り動かない。

   雨でタイヤや床が濡れていたら怖いから留めてもらうのだが、今日はその心配もない。

 

  それにしても、こんな運ちゃん初めてだな。

   夜間の運ちゃんだから今まで会うことが無かったのかな。

   まあいっか、バスには乗れたし、家の近くまではこれで行ける。

   ICカードでお世話になったおばちゃんが途中で降りる。

   「お世話になりました」

   「いいえ、どうぞお気を付けて」

  するとおっちゃんが振り返る。

  「○○だよな、降りるの」

  「はい、○○です」

  あとは任せておけ、そんな雰囲気だ(笑)

  ○○の前のバス停を通過すると、おっちゃんはボタンを押してくれた。

  「押したぞ」

  「ありがとうございます」

  おっちゃんは嬉しそうだった。

  面白いなぁ。

  目的のバス停に到着。

  運ちゃんは僕が降りるバス停を聞いていたようだった。

  バスを停めると、僕を降ろす準備に入ったからだ。

  僕はスロープを降りながらお礼を言ったのだが、やはり僕と目を合わせない。

  こういう人なのかなと、僕は降りたスロープの脇で待つ。

  ICカードをタッチしてもらうためだ。

  すると運ちゃんが。

  「先ほどはすみませんでした」

  「え?」

  続けて運ちゃんは、車イスの人を乗せたことがほとんど無くてスロープの出し入れもうまく行かず、混んでいたから慌ててしまってみたいなことを、スロープを片付けながら、ぼそぼそっと。

  はしょってしまった行程があったことを反省されているようだった。

  「いえいえ、終バス間際で混んでいましたし、あ、ICカードでお支払いをお願いします」

  「いや、今回は結構ですよ」

  「いやいやいや、それはマズイっしょ、それにお客さんにタッチしてもらっていますし」

  「あ、そうでしたか、それでは・・・」

  と運ちゃん、僕のICカードを運転席へ持っていき、タッチを。

  「すみませんちょうだいしました、残金は○○○円でございました」

  「ご丁寧にありがとうございます」

 

  運ちゃんは単純にテンパっていただけだった。

  ついさっきまで、なんて残念な運ちゃんだと思っていた自分に大反省。

  実際、揺れも少ない安全運転だったし、運ちゃんに頼れない分、初めてお客さんに色々世話してもらうという経験も出来たわけで。

 

  犬も歩けば何とやらって、犬に失礼か(笑)

  でも、災難と取るか、そうでないかで、随分と変わるもんだ。

  面白い経験だった。

  微々たるもんでも、こうやってそれぞれの日常、出来事が重なり合って、街が柔らかくなっていけばいい。

  バスの窓から、赤ら顔のおっちゃんがニコニコしながら手を振っていた(笑)

  いやぁ、いい一日だ。

 

 長文お付き合い、ありがとうございました。『ゆきわたり』が今年も、老若男女、いろんな人がしゃべり出して、大いに盛り上がりますように。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

 

ゆ め 風 基 金

 

 あいつぐ自然災害の猛威のなか、被災障害者の支えとなっているのがゆめ風基金です。

これは阪神淡路大震災を契機に産まれた団体で、正式には「認定NPO法人 ゆめ風基金」と言います。伊勢市にもコンサートでお越しになった小室等さんや永六輔さんなどが呼びかけ人となり、故河野秀忠さん、牧口一二さんたちが実質的な活動者となって募金活動を展開してきました。10億円の基金を目指したエピソードはこの項でも触れました。

 今回の夏祭り、いせの夜祭での募金はゆめ風基金に送りました。今後も募金活動を続けていくつもりです。今年に入って大阪北部地震、西日本豪雨、台風21号、そして先日の北海道胆振東部地震と、どうしてこんなにもと思うくらい自然災害が続いています。

 

 大きな災害のあと、もっとも必要になるのが「お金」だということを阪神淡路大震災で実感しましたので、そのエピソードを少し。

 阪神淡路大震災が起こってから、それこそ何日も何十日も神戸の知り合いに連絡がつきませんでした。ようやく「えんぴつの家」の松村敏明さんに電話が通じ、「とりあえず何が要る?」と聞いたところ「水と金や、金!!」と叫ばれました。物資不足が報道で取り上げられ、「いま、えんぴつの家はトイレットペーパーやタオル、毛布などで身動きとれん状態や。金が要る!!」とのことでした。早速、予定していたコンサートを「永井隆

阪神大震災救済チャリティーコンサート」と銘打って実施し、収益金と募金を合わせて100万円を被災地障害者センターに届けました。鉄道は芦屋まででした。大阪を出るとブルーシートで覆われた街の連続でした。駅を降り立ったときの衝撃は今も脳裏に深く刻まれています。

 水とお金。そう言えば、三宮の街で出逢った赤い貯水タンク車には「伊勢市」と記されており、思わず声を掛け合ったのが先日のようですが、もう23年前のことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

「いいとこさがし」は今も

 

 今から30年ばかり前、障害者の作業所を作るかどうかで迷っていた時、北村小夜さんに相談しました。北村さんは「一緒がいいなら何故分けた」の著書の題名からもわかるように、この国で「障害児を普通学級へ」の道を先駆的に開かれた方です。とにかく分けないことに最大の重きを置く北村さんは作業所についても当然のように肯定的ではないだろうと感じていました。だからおそるおそる「伊勢に作業所を作ろうと思っているんですが、どんなものでしょう?」と話したところ、「『いいとこづくり』なら『いいとこさがし』よりはいいんじゃない」とおっしゃっていただきました。

 障害児教育に携わって先ず感じたのは、障害児の親の多くが「今よりいいところはないか?」「今よりいい先生はいないか?」と子どものために奔走することが多いことです。「この子のために」と思う親心は痛いほど分かりましたが、現状に不満や不足を挙げ始めたらおそらくキリがありません。あちらこちらと移る間に時間は経ち、結局は元に戻ったという話も聞きました。北村さんは「そんないいとこさがしは止めたら」とおっしゃっていました。そして「さがす」よりは「自分でつくる」方がマシなんじゃないとの助言だったと思います。

 

 ステップワンに新グループホームが完成し入居が始まってから、見学や視察が多くなりました。特に親や家族の会の方が見えると、いつも自分たちに合った「いいとこづくり」をしてくださいとお願いしています。多くの人と出合うようになって考えることが増えました。今も「いいとこさがし」が続く中、少しずつ話題を提供していきたいと思います。

 

 

 

 

中日新聞生活欄・特集「グループホーム世話人」

 3月21日(水)~23日(金)の3日間に渡って、中日新聞朝刊の生活欄に「グループホーム世話人」と題して特集が組まれました。

 ちょうど開所を前にした入居者とその家族、職員が一堂に会した全体会議を開催する日に上中下の特集が終りましたので、皆さんに一読願いました。

 見出しだけでも、私たちの置かれている現状と課題が見えてくるように思います。紹介しますと、上「一人の泊まり勤務不安」「何が起きるか分からない」、中「どこまで仕事

線引き曖昧」「困っている人、放っておけない」、下「トラブル起きても安心感」「人件費補助で、泊まり勤務手厚く」です。詳しくは今後も取り上げて生きたいと思いますが、見出しだけでもどのグループホームも同じような悩みや苦しみ、心配や不安を抱えていることがよく分かります。

 一人勤務の不安を解消するために名古屋市には市独自の補助制度があるとのことです。うらやましい限りですが即可能になる制度ではないのが現状だと思います。法人の苦しい財政の中でどうサポートしていけるか模索していきたいと考えています。

 ご意見があればお寄せください。

 

 

 

新グループホームの開所に当たって

 

 

 この4月1日からNPO法人ステップワンは二つのグループホームを運営することになります。新しいグループホームの名前も「くれよん」と決まり、いよいよ入居が目前となりました。「この先、本当にうまくいくのだろうか…?」と不安になり、夜中に起き出しては気になることをメモする悪いクセが出てきました。

 新しく職員を募集し、3月には研修を行い、少しずつ体制は固まりつつあります。ただ新しい職員の心配や不安の深さを聴くと、もっと力になれないかとは思います。しかし、なにぶんにもやってみないと分からないところがあります。サポートの態勢づくりの案を練り直していたところ、今朝の中日新聞朝刊に「一人の泊まり勤務 不安」と題して、「グループホーム世話人」の特集が組まれていました。

 特集の意図は次のように記されています。

 「障害者が地域で暮らす『グループホーム』。そこに住む人たちの暮らしを支えているのが『世話人』だ。入居施設からグループホームなどに生活の場を移す地域移行が進む中、世話人の重要度は増している。しかし、必要な資格や研修制度はなく、仕事内容に明確な定めもない。世話人たちはどんな苦労を抱えているのか。」

 グループホームで起こる事象に翻弄され、心身が傷ついたりするる職員の様子が具体的に記述されています。「何が起きるか分からない」 現実は確かにこの言葉に象徴されているのだろうと思います。しかし、あまり不安だけをあおりたくはないとも思う。しかし「やってみないとわからない」では無責任なような気がする。できることは、どんなサポートが組めるかということだけなのだろうか…?

 

 

 

 

長 い 間 …

 

  長い間…

   長い間おつきあいいただき感謝いたします。こういった文言で「来年からの年賀は欠礼します」との連絡をくださる方が増えてきたように思います。また返礼が「OOは昨年O月、逝去いたしました。長い間、本当にありがとうございました。」といった形で、ご家族の方から思いもかけない知らせをいただくこともあります。自然の摂理だし如何ともしがたいことですが、年々お亡くなりになる方が身近で多くなり、寂しい思いをします。

   また、各界の一線を退かれる意志を固めた方もみえます。「もうそろそろ潮時かなと思い…」「有終の美を飾りたい…」といったお言葉で仕事や活動に区切りを付ける方もみえます。逆に「学位を取得し、今後も研究を…」という方もみえます。病気のことや体調のことを知らせていただく方もあり、他人事ではない自身の衰えを実感したりもします。年を追う毎に年々、年賀状の様相も変わってきました。

  年賀状の中に「障害者運動家さんが次々と亡くなり」という文面もあり、寂しさを共有する方も多いのだろうなと感じました。たくさんの教えをくださった方のご逝去は寂しさ悔しさもひとしおです。

   河野秀忠さんの思い出ひとつ。先に亡くなられたお連れ合いさんへの河野さんの熱愛ぶりは有名ですが、こんなことをおっしゃったことがあります。

  活動にかまけて家事をしないことは論外だとして、「あんたも急な雨かなんかの時家の洗濯物を入れることがあるやろ。入れたとき、連れ合いさんは『ありがとう』言うやろ。それではあかん。あんたが入れることが普通になって、あんたが連れ合いさんに『入れてくれてありがとう』って言うぐらいにならんとあかん。」

   多忙を自慢げに話す世代の頃のことだったろう。今でも胸には刻まれているが、実現した試しはありません。恥ずかしい限りです。若干ニュアンスは違いますが、同様のことを島根の太田さんという方が「夢ごよみ風だより」に書いてみえます。各地で心に刻まれる言葉を残してくださった河野さん。

   本当に長い間、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

Yesterday  When  I  Was  Young …

 

 年賀状の季節になり、名簿の整理を始めようと思うのですがなかなか進めません。今年も大切な人を何人も亡くし、故人が年々増えていくのは当然のことなのですが、それでもやはり寂しい。年甲斐もなく感傷に浸るとき、最近よく聴くのが邦題が「帰り来ぬ青春」という曲です。

 シャルル・アズナヴール作詞作曲のこの歌は、ご本人のフランス語・英語盤がありますが、何と言っても好きなのはカントリー歌手グレンキャンベルの盤です。Yesterday When I Was Young… と流れるとたまりません。そのグレンキャンベルも今年の夏に旅立ちました。

 河野秀忠さんが旅立ち、たくさんの人が追悼の言葉を寄せています。何故か荒っぽいというか素直な本音というか、ありのままの自然な文が多くホッとします。河野さんのひととなりなのか、褒めたり讃えたりだけのものよりずっと河野さん好みだということを皆さんよく知っているように思えます。

 牧口一二さんは「河野を褒めるだけではおもしろくない。ちょっと補足すると河野は何事も少しオーバーに表現するクセがある(催しに集まった人数でも、主催者発表の上をいく)。でも、あれから23年かけて、ゆめ風基金の募金総額はナントと言おうか、やっと10億円を突破したところ。あながちオーバーでもないのかな……でも、23年も先を予測していたとは思えない。」と、ゆめ風基金創設の頃のことを記しています。河野さんの発想から「金集めの手がかりに、大阪近辺に講演・演奏に来られる有名人の楽屋を急襲し、募金をお願いして回った」 山田太一さん、永六輔さん、小室等さん…の名前が続きます。

 阪神淡路大震災の直後、河野さんから牧口さんに電話。やりとりは「えらいことになっとる。金や、金を集めなあかん」「そやろな、何ぼくらい要るやろ」「10億円や! 10億円」「えっ?! とりあえず5億円にしようや」 

 とっさのことに値切っていたという牧口さんはここでもスケールの違いを痛感したそうです。しかし、そのおかげで10億円。10億円というのは大変な金額です。ゆめ風基金が生まれていなかったら… と考えると、このお二人の思いの大きさに圧倒されます。

 

 

 

うまくゆかない生と死

 

 

 今年も速いもので師走となりました。この一年の間にも親しくしていただいた人たちとの別れがありました。年々「別れ」という言葉の重さが胸にこたえるようになり、寂しさが一層つのります。

 Eテレのバリバラをきっかけに障害者と感動番組や感動話のことを書こうと思っていながら、月日だけが過ぎ去っていきました。この間に、何度か取り上げた「そよ風のように街に出よう」の編集長の河野秀忠さんが逝去されました。9月のことです。会報にも書きましたが、昨年倒れた後の様子が芳しくなく、ずっと心配していたのですが残念です。

 今年の5月、職員研修で豊能障害者労働センターを訪ねた折にお見舞いをと考えたのですが、「会っても、きっと分からんよ」という言葉に止めました。自分は何が苦手といって、お見舞いほど苦手なものはありません。病室の中でどうしていいのかわからずに長居をしてしまったり、逆に慌てて失礼な場面をつくってしまったり、恥ずかしい限りです。そのため、お見舞いしなくてはと想う人のお見舞いもおろそかになってしまって悔やむことがあります。

 河野さんが亡くなり幾つかの追悼の言葉や文章に出会いましたが、河野さんに相応しい(?)荒っぽい追悼の文もありました。牧口一二さんも「河野を褒めるだけではおもしろくない」として「人はいずれ死ぬる。わかっちゃいるけど… あの世ってあるのかよ? (昨年ツレを亡くし、ことし真の友と別れたボクの気持ち)」と題して「そよ風 №149」に追悼文を寄せています。他の方のもあわせて少しずつ紹介したいと想っています。今度は続けます。

 自分も、今年はとても大切な友人を亡くしました。未だにその辛さから解放されていません。

最期を見るにつけ、生も死もうまくゆかないものだと実感しています。最近、人にお話しする時次のうたを紹介しています。

  おいとまをいただきますと戸をしめて出てゆくやうにゆかぬなり生は

                                 斎藤 史

 

 

 

 

 

昔風の言い方ですが、

 

「いま、Eテレがおもしろい!!」

 

 8月27日(日)、某テレビ局の24時間テレビに合わせて、NHKのEテレで午後8時から障害者情報バラエティー「バリバラ」が生放送されました。テーマは「障害者の夢 応援してみました!」です。とても痛快な番組に仕上がっていました。

 中でも思わず「感動してしまった」のが、寝たきり芸人と呼ばれる「あそどっぐ」さんの夢実現の旅でした。おそらくはキャスターやコメンテーターも「感動するつもりなど、まるでなかった」感のある雰囲気の中で、やはり「感動してしまっている」ようでした。

 あそどっぐさんは脊椎性筋萎縮症で寝たきりの生活です。彼の夢は熊本県にある天台宗釈迦院の御坂遊歩道3333段の石段を登ることでした。寝たきりですから、当然他人の手を借りてタンカに横になり、登っていくことになります。彼が「思っていたのと違う」と口走るように、それはとてつもない石段でした。

 それでもスタッフとヘルパーの手を借り、更に観光客を巻き込んで少しずつ登っていきます。観光客とも冗談を交わしながら2時間で1000段を上がりました。しかし、この調子では頂上に着くのが18時30分、戻ってくると24時30分になることが判明しました。

 諦めて下りようとしていた、その時、熊本農業高校サッカー部の合宿メンバーが通りかかります。彼らに声をかけると「もったいないですよ、上まで行かないと」とうながされた上に、彼らの合宿のトレーニングメニューに組み入れてくれます。お礼を言うと、顧問らしき人が「この子たちにも夢があるけんですね」の一言。これにはグッときました。

 出発して4時間、あっという間の16時には頂上に到着。タンカの方向を変えてもらって景色を堪能した後、あそどっぐさんの「帰りもお願いします」の一言に大笑い。

 合宿メニューに取り入れてくれて高校生にとっては練習になり、障害者の念願の夢が叶い、これは「やらせではないのか?」と疑われるほどのお話になっていました。みんな、「えっ、こんなことってあるの?!」と感じる「感動」話でした。

 ある調査で、「障害者の感動的な番組をどう思う?」の問いかけに、「好き」が健常者は45%なのに対し、障害者はわずか10%でした。感動的な作られたようなお話は結構ですが、バリバラのような番組が創られていることは嬉しいことです。

 バリバラの前身になる「きらっといきる」は、そよ風に関わりがあり、伊勢にも何度もお越しになった牧口一二さんが大いに関わっていました。そのお話は次回で。

 

 

 

新グループホームの建設に向けて

 

 念願の新グループホームの建設が始まります。10月に工事に着手し、来年の3月には木造2階建ての新グループホームが完成する予定です。

 この項で「グループホーム考」として想いの一端について述べてきましたが、6月以降は国の社会福祉施設等整備事業の補助を受けるための作業に懸命で、残念ながら考える暇もない状況でした。

 現在のグループホーム「ぱれっと」は土地と共に購入した家屋であり、建築の要はありませんでした。今回は補助申請からさまざまな手続きを経て建設に至るという初めての道筋です。昨年の7月に「平成29年度社会福祉設備等整備計画書」を作成し、ヒアリングを受け、内示を待ち続け、ようやく建設に向けての本格作業に入ったという段階です。

 2013(平成25)年に「共同生活介護事業」として「ぱれっと」での生活を開始し5年目に入りました。この間、一棟だけのために男性と女性が1~2年毎に入れ替わって入居するという変則的な形態を取ってきました。親の高齢化も進み、この状況をいつまで続けるのかという焦燥感が親の中にはあっただろうと想います。また国の予算措置も厳しく、断念せざるを得ないという事業所もあるという現実が大きくのしかかってきていました。

 ただ、相模原障害者殺傷事件の後、地域で障害者が生きていくための方策をさまざまな方面や角度から考える状況になり、小規模な地域の住まいが見直されるのではないかという希望的な観測は持っていました。そのためではないにしろ、ようやく着工の目処が立ったところで、これからもグループホームについて考えていきたいと想います。

 今年の夏も、障害児・者の教育や進路、生活と暮らしについて色々な人たちと話しをすることができました。学齢期のお子さんをお持ちの親御さんの中にも作業所やグループホームについて高い関心を持ってみえる方々もいました。そういった方々に民間の小さなボランティアや親の団体でも運営していける可能性のあることを伝えていきたいと想います。ノーハウにはしたくないけれど、地域で「共に生きる」とは何なのか?、できるだけ具体的に提起していきたいと考えています。

 

 

 

 

「グループホーム」考 その4

 

  いま本当にグループホームが必要なんだろうか? 立ち止まって考えてみるると、「作業所の次はグループホーム」という思いに縛られ、当たり前としてきた前提が揺らぎ始めている自分がいます。

 親の話し合いの中でも「どうしても欲しい」親と「そうでもない」親に分かれます。同様に、障害者も「入りたい」人と「入りたくない」人、意思が明確でない人に分かれます。当然のように、入りたい障害者が居る限り作るべきだと思います。ただ法人全体として進めていこうとする場合、できるだけ一体となって動くべきだろうと思います。何をするにも人にはいわゆる温度差がありますから仕方がないのですが、なかなか「一致団結して」にならない場面もあります。

 親が若く、いまは必要でないとする人も「いずれは…」と考える人もいます。自分の年齢を考えた時、この「いずれは…」にどこまで付き合えるのかも心配です。法人にとっては大事業ですから、「もう一棟が完成したらそこで落ち着いてしまうのではないか?」「次の事業に進んでいくことが可能なのか?」を心配する人もいます。

 結論を出す時期が迫っている中、資金繰りと同様に法人全体としてどう意識をまとめていくかが課題です。 

 

 

 

「グループホーム」考 その3

 

  障害者権利条約の第19(a)には「障害者が、他の者との平等を基礎として、居住地を選択し、及びどこで誰と生活するかを選択する機会を有すること並びに特定の生活施設で生活する義務を負わないこと」とあります。

   ステップワンに関わる障害者がどこで誰と生活したいのか、このことを見極めることが最重要課題です。ここがはっきりとすれば、自ずと居住地が何になるかも明確になります。しかしこれは容易ではありません。特に知的最重度と呼ばれる障害者が「どこで誰と生活したいのか」を見極めることは至難であり、親にしても職員やボランティアにしても手探りの状態が続いています。ステップワンには自分の意思表示を言葉で行う人もいれば、全く言葉を使わない人もおり、言葉以外の身体の動きをどう判断していいのか不明な場面がある人もいます。

 グループホームについては、「(これまでの体験から)皆と一緒にいるのは楽しいからグループホームがいい」という人もいれば、体験以前に拒否の姿勢をはっきりと見せる人もいます。意思表示のある人については本人の希望が見えることで先ずは間違いないだろうと判断できます。そうでない場合は、やはり親や家族の選択が優先されることになります。

 障害者権利条約においてもそうですが、多くの障害者に関わる施策にしても障害者の「選択」をどう考えるかが大きな課題だと考えます。法や条例にしろ施策や対策にしても、すべての障害者を障害者一般として括ってしまうことについての疑問がここでも浮かんできます。

 グループホームについても単なる必要論だけでなく、他の視点からも考えてきましたが未だに方向についての思いはさまざまです。そんな中、第2棟の建設についての決定時期が近づいています。禍根を残さないためにも話し合いを続けていきたいと思います。

 

 

 

 

「グループホーム」考 その2

 

 「脱施設化」の流れは相模原障害者殺傷事件以降さらに進むだろうという意見もありますが、本当にそうなるのでしょうか。希望的な観測だけで、障害者と呼ばれる人たちが「本当に誰とどこで住みたいのか?」といった議論にまでは進んでいないような気がします。というより、「そんな議論すらあるのか?」と言われれば、自分の周り以外では聞いたことがありません。

 大きな施設のありようについては事件以前から問題視されていました。これは障害者だけに限ったことではなく高齢者や子ども、病気の人たちなどのさまざまな施設がある中で、規模が大きくなればなるほど当然のように問題は量的に増え深刻になりやすい傾向にあるからでしょう。ただ、規模の大小に関わらず、施設そのものが問題を抱えていることも事実です。そして、グループホームも施設と言えば施設なんだろうと思います。

 新しいグループホームの構想を巡る話し合いの中で、自分自身がはっとさせられたことがあります。長くボランティアを続けている人が「やっぱり家族と住むのが一番じゃない」と、ふっと言ったのです。当たり前と言えば当たり前のことなのですが、グループホーム建設ばかりに思いが行っていた自分には何故か新鮮でした。「その通り」なんです、「みんな、そう」なんです。

「しかし、そうはいかない」からこその話なんですが、時として忘れてしまいがちな肝心な部分を指摘されたような気持ちになりました。

 24時間の見守りが必要な人は障害者だけに限りません。そんなすべての人たちが在宅で過ごせるだけの社会資源の揃う日がやって来ることが、今の段階では想像すらできません。そんな中でグループホームの果たす役割とは何だろう? 問題はどこにあるんだろう? 今後、どんな展開が予想されるのだろう? そんなことを考えていきたいと思っています。

 

 

 

「グループホーム」考

 

 NPO法人ステップワンは現在ステップワン作業所と新道の店「すてっぷわん」、それにグループホーム「ステップワンハウス ぱれっと」を運営しています。グループホームは一棟しかありませんので今は女性が入居しており、女性と男性が年度ごとに交代で居住する形態を取っています。親の高齢化とともに新棟の必要性が高まり、その建設に向かって邁進しているところです。そんな中で、前回記したように忘れてはならない大事な視点を見失いがちになりそうなので、「グループホーム」考と題して書いていくことにします。

 グループホームの構想や建設についての話し合いの中で、私たちは時に「親亡き後」という言葉を使います。特に障害が重いとされる人の将来について語られるときに、最重要課題のようになることがあります。私自身も使うことがありますが、実はかなり抵抗のある言葉なのです。

 支援やボランティア活動に従事する者が、障害者やその親の向かって「親亡き後を考えなければ…」というとき、極端な言い方をすれば「脅し」のようになっていないかと危惧しているのです。「親亡き後」を考えないのは展望がない親である、そんな迫り方になっていないかと心配なのです。現在を生きることで精一杯なのは誰しも変わりのないことなのに、自分自身が亡き後の子どもの将来を真剣に考えたこともないのにと反省するのです。

安易に「親亡き後」という言葉を使うことで障害者親子を苦しめたり、市民の同情や関心を惹くようなことだけは避けたいと想っています。そういえば「共に生きる」を目指した人たちの中では、「親亡き後」という言葉の使われ方を危惧していた人が何人もいたように想います。

 グループホーム建設が現実味を帯びる中、利用者の人たちが「本当はどこで、誰と住みたいのか?」という問いとともに考えていきたいと考えています。

 

 

「ひっそりと、ゆっくりと、しっかりと」その2

 

 「ぱれっと食堂」の構想はあったものの実現には半年ほどの時間がかかっています。その間に相模原障害者殺傷事件があり、このことが実現踏み切りの大きな一つの要因にもなっています。

 地域ではなじみのない障害者のグループホームがどのように見られているのか、私たちはとても不安で心配の種は尽きることがありません。だからこそグループホームを知っていただくためには、より開放的に積極的に地域に出ていくことが第一だと思いました。グループホームを開放して先ずは来ていただき、建物や生活の様子を見てもらい、誰が住んでいるのか知ってもらうことが大切だと考えました。勿論、障害者の暮らしの場ですから無制限に開放することはできませんが、イベントや行事での出会いを通じておつき合いが広がっていけばと願っています。

 相模原の事件を契機に大規模な障害者施設の在り方が問われています。事件がきっかけとなり安全管理が第一の課題となり、入所施設がこれまでよりも更に閉鎖的になっていくおそれがあります。何事についても同じですが、隔離することにより偏見や差別はより大きく深刻なものとなっていくと考えられます。

 また今後の障害者の暮らしを考えた場合、大規模な障害者施設の建設と10名程度の小さなグループホーム建設とを比較すると、グループホームの方が予算的に軽減され工期も短縮できるといった意見もあります。街の中に小さな規模のグループホームが誕生すれば、家庭で暮らすのと同じような生活のイメージができるのではないでしょうか。私たちも小さな規模のグループホームが数多く誕生することを夢見ています。ただグループホームの在り方を考えたとき、忘れてはならない大前提があります。

 「障害者の人が誰とどこで住みたいと思っているのか?」 これが私たちの大きな課題です。グループホームの建設や運営ばかりに力を注いでいると、一番大事な視点を忘れてしまいがちになります。「グループホームを建設することが目的化し、肝心の障害者の思いを酌み取ることができなくなったら何のための施設なのか?」ということになりかねません。あらためてみんなで「しっかりと考える」ことが大切な時期を迎えました。

 

 

「ひっそりと、ゆっくりと、しっかりと」

 

 昨年の秋からグループホーム「ステップワンハウス ぱれっと」で地域食堂を始めました。当初は全国でも広がりを見せている子ども食堂を伊勢市でも実現させたいという思いがありました。全国ニュース等でも取り上げられた所為か、子ども食堂の話をすると各所で関心を持った人たちに出会い、中には一緒にやりたいという人もみえました。ただ貧困というテーマを前面に出した場合、はたしてそれで子どもたちが集まってくるのかという疑問は消えませんでした。そこで「地域の中で共に生きる」を掲げるステップワンは「まずは地域だろう」ということで「地域食堂」というフレーズを使うことにしました。

 今のところ地域を謳いながら、なかなか地元の方への浸透が乏しい現状です。ただ「ひっそりと、ゆっくりと、しっかりと」をキャッチフレーズにしていこうと考えています

 ひっそりと地域で続けていきたい、ゆっくりと焦らずに広げていきたい、しっかりと根付いたものにしていきたい、そんな思いでいます。なかなか地域の中でもなじみのない障害者のグループホームは知ってもらうことが第一です。こういった活動を通して「子ども食堂」にもつながっていければと願っています

 

 

 

命の重さと「共に生きる」3

 

  いま福祉の現場では人材確保が大きな課題となっており、この問題の解決や改善にはまだまだ時間がかかりそうです。というより、ますます状況は悪化していくのではないかという危惧さえあります。全国的にも各地域にたくさんの高齢者のための施設が建設され、高齢者や障害者のためのサービスが数多く展開されています。問題は施設やサービスの増加・増大と共に、その仕事に携わる人材もそれだけ必要だということにあります。当然、施設やサービスに見合うだけの人数が量として必要となるわけですが、問題はその仕事に相応しいだけの資質や力を持った人がどれだけいるのかということです。

 

福祉の現場では人員の不足から、人物を問わずに採用しなければ成り立たないといった状況もあるようです。どれだけ求人を出しても応募がなく、応募があれば即採用といった声も聞きます。新聞の折り込みチラシは常に福祉の現場の求人広告がかなりのスペースを占めています。この状況の根幹には、福祉に携わる事業所の給与が余りにも低いということがあります。給与改善のための方策が次々と打ち出されていますが根本的な解決には至っていません。この状況が続く限り、福祉の状況は低迷したままということになるでしょう。そのことが高齢者や障害者に対する施設内での虐待をはじめとする非人道的な行為につながっているように思えてなりません。

 

そのことが起こす延長線上に今回の相模原の事件もあるように思えます。犯行を供述している容疑者の危険な考えや思いは施設の中で膨らんでいったのではないかと思われます。危険性を感じていた施設や警察に打つ手はなかったのかという失望感もありますが、彼がこの仕事に携わらなかったらとも思います。障害者や高齢者の施設で、採用されて間もなく言動が乱暴になっていった人の事例もあります。こういった事例があることの原因を探っていくことも重要なのではないでしょうか。

 

最近、様々な会議や研修の場で、そしてステップワンに関わる事業の展開の中で、「えっ?」と思うような福祉関係者の言葉に出合うことがあります。どうして、この人が福祉に関わっているのか?どうしてこの人の生業になり得ているのか? 余りにもひどい時には注意をしたり抗議をしたりということになりますが、不思議と当の本人には様子がつかめないこともあるようで…

 

 質の確保のためには何が必要なのだろうか? 考えさせられる毎日です。

 

 

命の重さと「共に生きる」2

 

 相模原市の障害者殺傷事件から1ヶ月余りが過ぎ、新聞各紙には様々な視点からの記事や報告、論評等をはじめ、被害者の家族や友人、事件に衝撃を受けた障害者や親・家族、施設や障害者運動に携わる人たち、福祉担当者や教職員、学識者など、多数の人たちが事件について語っています。この国の犯罪史にも例を見ない余りにも衝撃的な事件であったことや全容が掴みきれないことから論点が絞り込めていない気がしますが、今後も様々な視点からの発言が続くことが事件を闇に埋もれさせないことになると思います。

 

「遺族への配慮」という理由で、未だに犠牲者19人の氏名が公表されていません。実名が公表されないことによって、これまでの凶悪事件のように怖ろしさの実感が伴いにくく事件が風化し忘れ去られて行ってしまう危険もあります。「今回だけの特例」という言葉が示すように、問われているのは障害者を特別扱いしてきた私たちの歴史にあります。遺族や関係者に匿名を望ませる社会の中の偏見や差別についての論究が始まることを期待しています。また、障害者への差別的感情をなくしたいという理由から実名で新聞の取材に応じる家族もみえるそうです。こういった願いを大切にする社会になってほしいと心から思います。

 

NPO法人ステップワンの作業所やグループホームには、同じように障害が「重い」とされる人たちが生活しています。言葉による意思疎通が難しい以上、私たちの多くの営みが手探りであることは否めません。何とかわかろうと努力はするものの、常に自分の思い込みなのではないかという疑念がなくなることはありません。家族ですらわからないという行動に途方に暮れることも度々ありますが、逆に言葉ででしかつながれない人間関係に危うさを感じることもあります。容疑者の供述の中に「意思疎通ができなければ動物」という言葉があったようです。献花台を訪れた人の大半が「理解できない」と否定されたようですが、自分自身が問われていることを明らかにしていく必要があるように思います。そのために言葉を使うにしろ使わないにしろ、生きている以上どういう関係が創り出せるのか、そのことに懸命になれる施設を目指していきたいと思っています。

 

 

命の重さと「共に生きる」

 

 神奈川県相模原市の障害者施設で19人の障害者の命が奪われるという事件が起こりました。逮捕された容疑者は「障害者は死んだ方がいい」と日頃から話していたと報道がなされています。容疑者の状況が詳しくわかりませんが、日頃から彼が口にしていた言葉が事実なら、人の命や人の幸・不幸をどう考えるかに関わる大きな問題です。

 

「人が幸せであるかどうか」については本人にしかわからないことは明らかですが、時としてそれを周りの人間が判断するという過ちが繰り返されてきた人類の歴史があります。特に障害者にとっては、存在そのものを脅かす思想として残っているのかと思うと愕然としますが、その根底には能力主義が連綿としてあります。

  要するに「できる」「できない」で人を分け、「できない」ことを否定する考え方、「何もできないなら死んだ方がいい」という人間としての恥ずべき思い上がりです。選民思想とも呼ばれる考え方は悲しいかな人類の歴史に悲惨な出来事を繰り返し残しています。

 

彼は「被害者の家族には謝罪をしている」と報道されています。被害者本人ではなく家族に謝罪という点が、まさに選民思想です。つまり家族は同じ仲間だが、障害者はそうではないという考えです。こういった思想が共感される素地が、今の時代にも残っているとしたら大変怖ろしいことですが、否めない現実としてあると思います。そしてこの能力主義が日常の社会の中で、決して他人の問題ではなく自分自身の中にもある克服すべき課題としてあることを深く認識することが大切だと思います。

 

私たちは「共に生きる」を掲げています。「共に生きる」ことは、ある意味で「しんどさを共有する」ということでもあります。健常者が感じる「受け入れにくさ」は、障害者にとって「生きにくさ」につながっていることを忘れてはならないと思います。

 

 昨夜、娘が帰宅すると「今回の事件を、周りの人は大麻の所為にしているけどおかしくない?」と話してきました。彼の過去の言動や事件後のことまで考えていた背景からすると、決して単純な薬物の問題ではなく、「彼は正気だったからこそ怖ろしい」と考えざるを得ないような気がします。そのことの方が本当に怖ろしいのですが。

 

 

「新しい幸福論」という新書(その2)

 

   橘木さんの本で自分が興味を持った二つの貧困の定義について彼の著作から引用します。

 「絶対的貧困」と「相対的貧困」の説明が岩波新書「格差社会 何が問題なのか」で次のように述べられています。

 「絶対的貧困」は「各家計がこれ以下の所得だと食べていけない、生活できない、という意味での貧困です。食べていくのに必要な額は各地域によって違いますが、仮に年間150万円とすると、150万円以下の所得しかない人を貧困と定義します。」

 「相対的貧困」は、「他の人と比べてどの程度所得が低いかということに注目します。たとえば、平均的な所得と比較して、何パーセント以下の所得しかない場合を貧困と定義するとらえ方です。他人と比較して自己の所得が非常に低いと、その人は貧困を感じ疎外感をもつだろうと見なして貧困を定義するものです。」

 

  「新しい幸福論」(橘木俊詔著 岩波新書)は全5章で、それぞれの章は第1章「ますます深刻化する格差社会」、第2章「格差を是正することは可能か」、第3章「脱成長経済への道」、第4章「心豊かで幸せな生活とは」、第5章「いま、何をすべきか」となっており、「はしがき」と「おわりに」が付けられています。新書ですので5章とはいっても短時間で読み終えられるわかりやすい内容になっています。

   章の見出しでわかるように第1章から3章までは格差社会の現況と格差是正の可能性、今後の望まれる政策のあり方などが、「経済にダメージを与えないような、そして、幸福度を上げることを同時に達成するようなもろもろの政策を考えたい」として挙げられています。

 

 「新しい幸福論」と名付けられた本著の特徴は4章、5章であることは明らかです。第4章の小見出しは「1.食べるために働くべきではあるが、それがすべてではない」「2.家族」「3.自由な時間」となっています。第5章は「若い世代」「高齢者」「女性」「中央と地方の格差」「東京一極集中をやめる」に分かれており、それぞれについて政策提言がなされています。

   これまでの幸福論の一部にある処世訓に近い論述は各章にではなく、むしろ「おわりに

私が思うこと」でなされています。

 ・他人との比較をしない

 ・多くを、そして高くを望まない

 ・できれば「家族」とともに

 ・何か一つ打ち込めることを

 ・信仰をもつことはいいことではあるが

 ・他人を支援することに生きがいを

 ・他の人の幸せ

 と、それぞれの項目について考えが述べられています。これらを読むと、これまでの様々な幸福論と大差ないように思えますし、文学者や哲学者の幸福論と比べると物足りないのは確かだと思います。しかし「啓蒙書」として経済について知ることを「人生」や「幸福」と絡めて読むにはいいのではないでしょうか。

   ただ、幾つになっても「他人との比較をしない」と言われても、これほど難しいことはありませんし、彼が言う「逆の発想で、自分の優れた点を見つけてそれを100%生かせる人生を」と言われても「それも…?」と思われる方も多いと思います。

 

自分としては「幸福論を求める」より「格差社会の問題点をさぐり、そこに切り込んでいく」ことの方が現時点では有意義だと思いますので、そのための知識を得るには最適な新書だと思います。

  

 

 

「新しい幸福論」という新書

 

   橘木俊詔(たちばなきとしあき)さんの新しい著書「新しい幸福論」(岩波新書 20165月)が出版されたので早速読みました。「新しい幸福論」という書名から「これまでとは違った視点からの幸福論」とは想いましたが、言葉は悪いですが「なぜ今、陳腐な表現の『幸福論』なのか?」という感じを持ったのも事実です。これまでは新書に限ってみても「日本の経済格差」「格差社会 何が問題なのか」「家計からみる日本経済」といった書名で、いかにも経済学者の著書という雰囲気が漂っていたからです。だからこそか「そんな時代になったんだ」という直感のようなものを逆に覚えました。

 

彼は「格差社会 何が問題なのか」のあとがきで「本書は分量の限られた啓蒙書(ママ)です。したがって詳細な議論がないことに不満をもつ読者がおられるかもしれません」として本人著の専門書を紹介しています。自分のように経済が専門外の人間にとっては有り難い新書ですし、読んでいて「なぜ書くのか?」がよく分かります。彼の言葉では「啓蒙書」ということですが、訴えたいことは「経済の仕組みを分かって、格差がなぜ生まれるのか」を知ってほしいということなんだと想います。しかし状況はなかなか好転しません。勝手な憶測ですが、そんな世の中の動きへのもどかしさが「幸福論に行ったのでは?」とさえ感じてしまいます。

 

時代の流れで年功序列型賃金から能力・成果主義賃金へと移りつつあります。実力主義や成果主義が声高に叫ばれ「格差があっても実力の結果なんだから仕方がない」とか「格差の何が悪いのか」といった風潮は一刻のものでなく常態化しつつあります。その傾向に呼応するかのように国民の生活格差は拡大し、「貧困」が社会の課題の大きな一つとして挙げられるようになってきました。

   勝手な憶測ですが、そんな流れの中で格差社会を課題としながら「幸福論」を書き上げた橘木さんの気持ちがわかるような気がします。これまでの「幸福論」は彼が言うように哲学、社会学、心理学、文学などを中心に論じられてきています。そこに経済学の視点を加え「経済的な豊かさと人々の幸福度との関係を柱」にし、「働くことに特化するよりも、心豊かな生活を送ることのほうが幸せな人生では」と論じています。

 

橘木さんの著作で相対的貧困率についての知識と興味を持ちました。前回の「障害者と貧困問題」にも書いたように、障害者の貧困についても相対的貧困率がそれを測る基準の一つになっています。2014年のOECDの調査では、日本は相対的貧困率の高い順に世界4位になっています。「障害者と貧困問題」に出てくる年収122万円という算定の基準が相対的貧困率です。相対的貧困率とは、簡単にいうと「他の人と比べてどの程度所得が低いか」に注目するものです。障害者に関わる問題について書きながら、少しずつ「新しい幸福論」の紹介もしていくつもりです。

 

障害者と貧困問題

 

 「障害者8割が貧困状態」の見出しで、「福祉施設に通う利用者の82%は年収が『相対的貧困率』算定の目安となる122万円以下を下回り、本人の収入だけでは貧困状態にある」という記事が掲載されました(伊勢新聞5月18日朝刊 障害者作業所でつくる全国団体「きょうされん」の調査結果)。

 障害者と貧困に関する問題は長年の大きな課題でありながら、未だに大きな改善が図られていません。作業所での工賃や障害年金、福祉手当等を含めた全収入が年間100万円以下という人が61%、200万円以下となると98%にも上るということです。障害年金の拡充とともに、工賃等のアップをどう実現していくかが社会保障の課題です。

 ステップワン作業所も調査結果と同様で、工賃だけでは到底生活を営めるものを保障できていません。作業所と聞くと一般的には「給料をもらっている」と受け止められ、少なくとも最低賃金は確保されていると思われがちですが、実態は程遠いものになっています。

 「障害者総合支援法」(旧「障害者自立支援法」)によって、障害福祉サービスに係る給付などが整備され施設職員についての待遇等は改善されましたが、肝心の障害者本人の生活改善にはなかなか手が付けられていません。ステップワン作業所でも、工賃等の見直しが遅れています。今後、どういった方向で障害者自身の給料に当たる工賃を上げていくか、早急に考えていく必要があります。

 

 前回、「世界でもっとも貧しい大統領」を取り上げましたが、彼については国民の評価も分かれている部分もあるようです。今後も取り上げていきたいと考えています。

世界でもっとも貧しい大統領 

 

  最近の報道を見聞きしていると、「世界でもっとも貧しい大統領」と呼ばれたウルグアイ大統領のホセ・ムヒカのことを思い出します。2012年のリオ会議での演説に次のような言葉があります。

「昔の賢明な人々、エピクロス、セネカやマイアラ民族までこんなことを言っています。

『貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ』」

 8分間のスピーチに会場が沸き返ったとのことです。国民から「ぺぺ」の愛称で親しまれる大統領の生活ぶりや政治姿勢は一躍有名になりました。

 貧困が大きな社会的課題となる今、そして政治家と一般国民との金銭感覚についての認識が大きくズレてしまった今、彼の言葉にもう少し耳を傾けたいと思います。

「私は貧乏ではない。質素なだけです。」

「貧乏とは、欲が多すぎて満足できない人のことです。」

「私は、持っているもので贅沢に暮らすことができます。」

「人生はもらうだけでは駄目なのです。

 まずは自分の何かをあげること。

 どんなボロクソな状態でも、

 必ず自分より悲惨な状態の人に何かをあげられます。」

          以上 「世界でもっとも貧しい大統領ホセ・ムヒカの言葉」より