障害者雇用の水増し問題

 

 全国の中でも早くから「障がい者」の表記に改めた三重県で、あろうことか障害者雇用の水増しが明らかになりました。それも県で「障がい者」表記の発端となった三重県教育委員会においてです。障害者に対する差別意識の解消や緩和に向けて、言葉の問題である「障がい者の表記」の改善から取り組むとした組織が起こした悪質な差別問題だと思います。県は「表記の変更に止まることなく、本来の取組の充実や『障がい』を理由とした差別をなくすことなどについて、県民のみなさんにご理解いただけるよう一層努めることとします」と宣言しています。報道によると10年も前から行われていたということですから

表記を「改善」しようとしていた頃のことです。詳しくは今後調査する必要があると思いますが、同じような時期に全く予想もしない領域で信頼を覆すことが行なわれていた事実に愕然とします。

 障害者の雇用促進法については、重度障害者のダブルカウント問題や納付金制度の問題もあり法そのものも問題だと話していた自分も、公表される雇用率については疑うことが全くありませんでした。雇用率を誤魔化すことなどあり得ないことであり、不信を持つことすらあり得ないことでした。いま、情けないを通り越して全く言葉が出ない状況です。

 これから出るあらゆる数字を疑ってかかることしかないのでしょうか?

 

 

 

 

 石川憲彦さんの著作「『精神障害』とはなんだろう?」を紹介していく上で、「障害」という言葉の表記について触れることが必要だと感じましたので、10年以上も前の文章ですが載せたいと思います。

 NPO法人ステップワンでは「障がい」のひらがな表記は用いずに、「障害」と表記しています。 なぜ、そうなのか? きちっと説明してこなかったように思われますので、上述したように10年以上も前、2007年の拙文ですが掲載します。よほど腹立たしかったのか大仰な表現も有り恥ずかしいですが、真意をご理解いただければと願います。

 

 

「障害」の表記をめぐって

 宮崎 吉博

 

 人が生きていく上で腹立たしい想いや憤りを持って物事の推移を見ているだけといった事態が多々あることは、私も十分承知しています。しかし現在、「障害」の表記をめぐって、次々と「障害者」が「障がい者」に変更されていくことに大きな議論もなく推移していくことには疑念を感じています(勿論、私だけが議論の存在を知らないのかも?)。

  私自身は結論から申し上げますと、現在の段階では表記としては「『障害』者」としておいて、その用語を使用してきた歴史や表現における差別性の問題について議論を始めることが大切だと考えています。残念ながら、現在の段階で私自身が納得できる理由で「表記を変更する」という論には出合っておりません。

 一昨年あたりからでしょうか、「障害はひらがなで書いた方がいいんですか?」とか「『害』は、漢字とひらがなのどちらが正しいのですか?」という問い合わせが来るようになりました。「どこから、どんな風にして、そんな話になるのか?」が分からないこともあり、「おそらく県内のどこかで流行りだしたのでしょう。僕はきちっと漢字で書いていくことで、言葉の問題として「障害」の表記自体の差別性を問い続けていきたいと思ってますが…」と少しの説明を加えながら答えてきました。恥ずかしながら「結局は流行の類でしかなく、大きく障害者問題の変容をもたらすような本質的な問題ではない」と考えていましたから、大半は素っ気ない返事になっていたと思います。(中には「障害の定義」のようなものを国連、WHOや諸外国の例を引き合いに出しながら説明した場合もありますが、極めて少ないです。また、すべてが電話のやりとりなので、当然のように話し言葉ですから「ひらがな」も「漢字」もありません。いちいち「今の場合はひらがなです、漢字です」と説明しないと分かりません。このことだけでも明らかなように、「害」「がい」は読み書きの問題であって、話し言葉においてはほとんど意味のないことです。)

  単なる流行の次元の問題だろうと考えていたのですが、今夏に開催されたある研修会で「流行のようにして安易にがいにすることは問題」と表記の問題について話したところ、研修会が終わってから「実は、三重県として表記を改めた」と知らされました。そこで初めて「いつの間にこのような事態になっていたのか、何も知らずにいた」ことの不明を恥じました。ですから、もっと早い時期に自分の意見を述べるべきだったのでしょうが、それこそ「障害」者をめぐる他の問題の方が大きかったことと怠惰が原因となって今となってしまいました。現在のところ、私は「がい」と「害」の「どちらが正しい」とか、「表現として望ましい」などと述べるつもりは全くありません。そうではなく、この用語を使い続けてきた私たち自身、つまりは「健常」者を中心とした社会の差別性を問い直すことしかないと思います。だからこそ「安易に変えるな」と言い続けているわけです。とりわけ、「がい」と表記することが障害者問題の解決のための前進と信じている人たちには分かっていただければと思います。

 

 私は「障害」の表記について、これまでは次のような説明をしてきました。

 『障害』の表記については色々な考え方があります。漢字を見れば分かると思いますが、広辞苑によると『障』という文字の意味は『さまたげること』や『さわり』『防ぎへだてること』とあり、また『害』は『そこなうこと』や『悪くすること』『さわり』『さまたげ』とあります。いずれも「ひと」を表現する上で問題が大きいのですが、特に『害』については良い意味で使われることはありません。しかし問題は書き言葉としての漢字の問題だけではありません。もっと大きな問題は、「障害を持つ人」「障害を有する人」を「障害者」の一言だけで表現しようとすること自体に問題があるのです。国連やWHOでは次のような定義をしました。この定義が、この国で拡がらなかったことにむしろ問題があるといえます。それは次のような定義です。

  WHO(世界保険機構)は1980年に「WHO国際障害者分類試案」において、3レベルの障害の概念を提起しました。それによると、

  impairment(機能障害) 身体的・精神的不全という生理的・機能的レベルの障害

  disability(能力低下) 機能面の制約による能力の減少という個人レベルの障害

   handicap(社会的不利) その社会的結果である不利という社会レベルの障害

 の3つに分かれます。

 ただ、この分類にはいくつかの問題があり、2000年にも改定作業が行われています。私も因果論的に説明することの不適切さや、個人レベルに焦点が当たりすぎていると思います。また、それぞれの言葉自体に問題があることも承知しています。しかしそれ以上に、この3分類がこの国で定着しなかったことに、より大きな問題を感じます。この分類が少なくとも「障害」の一語で人を表そうとするよりは随分と分かりやすいものになっていると信じるからです。

  大体はこういった話になります。実際に様々な場でお話をすると、今でもレジュメに何かを書き込んだり、納得された顔でこちらを見ていることが感じ取れます。私は漢字の「害」の問題よりも、WHOや国連の定義が活かされないことに問題があると思います。また、そこから全国同和教育研究協議会は1984年から障害に「 」をつけることにしたのだと説明してきました。

  今のところ、私が共感したり連帯感を持つ障害者運動団体や出版関係者から表記の問題について、「害をひらがなに変更した」とか「変更を考えているがどうか?」等の意向を聞いたことは全くありません。少なくとも私が信頼する個人や団体からは、この表記の問題についての話はないということです。皆さんがどのような思いでいるにせよ「あまり、おもしろくない事態」だとは感じて見えるのだろうと思っています。ひょっとすると無視をすることによって異議を唱えているのかも知れないとまで思ってしまいます。

  私自身も今回の「改正」「改訂」「改善」については、はなはだ奇妙な論理ばかりを聞きました。曰く、「漢字のイメージの悪さから表現を変える」「ひらがなによって表現がマイルドになった」等々です。(思わず「差別にマイルドやハードがあるの?」と皮肉っぽく言ってしまいました。)

  また、「害」をひらがなにすることによっての文章の混乱ぶりは目を覆うばかりです。法令や条例、規則等の表記については従前通りですので、「障害」者問題についてのパンフレットやチラシの類が多く配られる季節、1枚のチラシの中に「障害者」と「障がい者」が混然と並んでいることに何の疑問も感じないのでしょうか? 大体、熟語の中の一語がひらがなという事実に気味の悪さや奇妙さを感じることはないのでしょうか? 私には大いに疑問ですし、腹立たしい事態だとしか思えません。更に言うならば、子どもたちが、「『障がい者』の『がい』って、どんな漢字なの?」と訊いてきたらどう答えるのでしょう? 子どもたちに「実は『害』という字なんだよ」と示して、漢字の問題について教えるのは指導にはなるでしょう。しかし「『害』を伏せよう、隠そう」とする文化にならないか、心配です。

 「そよ風のように街に出よう」に「千夏のま、イイッか」を連載している福本千夏さんは「”制度”の中の障害者たち」(「そよかぜ№128」 2007年6月23日発行)に次のように書いています。

 「最近障害者の『害』をひらがなで書くことが、なにげに拡がりつつある。『害』ひらがなバージョンの『障がい者』からは、いかにも社会はあなたたちを害だと思っていませんよ、差別していませんよ、仕事がないのは収入が少ないのは社会のせいではなくあなたの努力が足りないんですよ、だからあなたの自立を支援しますよ、という考え方が見える。だが、社会から障害を受けているのは私なのだ。市民として生きていく権利が依然として脅かされ続けている。学ぶ権利、働く権利、生きる権利を、障害者はまだまだ獲得できていない。『害』ひらがな『障がい者』ということばが一人歩きを始めた今、障害者はなお孤独になっていく。

  私はしみじみと「孤独」ということばを噛みしめざるを得ません。最も残念なことは、これだけ重要な事柄について十分な論議も経ないまま「害」が「がい」に変えられていったことです。少なくとも私自身はそういった議論の場に出合ったことがありません。4年前に「障害児教育のあり方」について意見を求められた折、私は次のように書いています。「何よりも障害者自身が「障害者」と一括りにされて呼ばれることにどれほどの憤りや抵抗を感じているか、身近にいる人たちにちょっと訊いてみるだけでも分かると思われる。ただ、個人的には「 」をつけることによって何が変わったのかを考えてみると、それほどの効果があったのかについては疑念が残る。「 」論議よりも「障害児・者観」についての論議を徹底して行うべきではないだろか?」

 「 」論議から20年あまり、その頃から何が変わったのでしょうか? また、何が変わらなかったのでしょうか?

    2007年12月7日

 

 

 

 

 

 

「障害」とは何か?

 

 石川憲彦さんの著作「『精神障害』とはなんだろう?」のプロローグ「本当に私は病気ですか?」の項で、障害について「「障害』というのは、『その時代の中で主として生産力をもちにくい人』のことを意味してきたと考えるのがいちばん素直なようです」と書かれています。その前段では「私はこれまで『障害』をいちばん規定してきたのは産業構造、生業(なりわい)だと考えてきました」とも記されています。そして農業社会の時代には身体障害者が問題視され、工業中心の社会の時代になると知的障害の人に不利になるような状況が生まれてきたと解説されています。これは今でいういわゆる「社会モデル」の考え方に立脚していることになると思います。

 「障害」とは何かについて考えるとき、国際障害者年を前に1980年に国連、WHOで生まれた障害の定義(これをいまは「医学モデル」と呼びます)と、その後これを止揚する形で生まれた「社会モデル」の二つについて触れないわけにはいきません。現在では「社会モデル」の考え方が主流とされ、障害についての研修などでも紹介されています。  

 しかしこの国では「医学モデル」の定着がなされなかったのに「社会モデル」の考え方が導入されたために混乱を起こしているように私には思えます。そのことと「障害」を「障がい」とひらがな表記する事態が各所で生まれたため、余計に混乱を招いているように思えます。そこで言葉の問題を含めて「『障害』とは何か?」について考えてみたいと思います。

 「障害をどうとらえるか?」については様々な議論がありますが、そもそも「障害」という言葉自体が持つ問題があまりにも大きすぎてどのように考えていけばいいのか、その糸口を見つけることすら十分になされていないような気がします。

 石川さんの講演で、order(秩序、命令、順序、規制、通常等)に、否定するときに使うdisがくっついて、英語のdisorderが生まれ、その訳語である「障害」があるという話はすっと落ちるような気がしました。要するに、秩序を守らない、命令に従わない、規制が難しいといったことが「精神障害」となっているわけです。

  石川さんの著作ではdisorderの説明の後、こんな風に続きます。

 「日本語では、このほかに少なくとも三つの医学・福祉関係の英語が、すべて同じように「障害」と訳されます。impairment(身体的損傷)、disability(機能不全)、handicap(社会的不利益)で、1981年の国際障害者年に向けてWHOが提起しました。さらに最近では、訳語の問題とは別に社会差別の問題をなくそうということで、「障碍」「障がい」などと表記されることが増えました。これからもわかるように、「障害」を医学の世界だけから説明していこうとすると、どうしても無理が生じるのです。「障害」は時代時代によって社会がなにを目指すかによって変わってきたのです。」と、医学モデルの限界が解説されています。

 これから医学モデルと社会モデルについて説明すると共に、「障がい」のひらがな表記の問題点について考えていきたいと思います。

 

 

 

 

石川憲彦さんの「こころ学」シリーズ

 

 児童精神神経科医の石川憲彦さんから「閉院のご挨拶」が送られてきました。林試の森クリニックをご同僚の方に継承していただき、お手伝いの立場に就かれるそうです。閉院のご報告と同時にお願いの文章があり、それが「こころ学」シリーズ刊行のお知らせでした。全8巻で、第1巻は「『精神障害』とはなんだろう? 『てんかん』からそのルーツをたずねて」で既に発行されています。予定では2021年に全巻を終えられるとのことです。早速注文したところ、先日、第1巻が送られてきました。これから少しずつ紹介していきたいと思います。

 石川さんの書かれる文は、お話と同様に大変わかりやすく、門外漢にもすっと胸の奥に入り込んでくるような気がします。随分と前に伊勢でも講演をお願いしました。当時はNHKラジオで電話相談をされていたこともあり、いわゆるファンの方も多く、会場は満員になりました。その時のお話から少しずつ紹介をしていきます。

 石川さんが小児科医だった頃、ひとに注射をしたり薬を処方することがとても怖かったそうです。そのお話を聴いた時、生意気ですが「この人は信じられるな」と感じました。

「障害」についてのお話の時には、「障害は英語のdisorderの訳語で、orderは秩序、命令、順序などですから、それをdis(…ではない)るわけで、つまり秩序を守らない、命令に従わないといったことになるんです」と解説され、会場の方々も「なるほどそうか」といった顔をされていたことを覚えています。 第1巻には、こういったエピソードや「障害」の解説も載っています。

 

 

 

 

 

住まいと暮らしのあり方いろいろ

 

宮崎 吉博

 

 9月24日(日)、神戸の「Re-Smile」というシェアハウスの見学に行ってきました。「えんぴつの家だより」にRe-Smileの見学会が掲載されていたので、早速松村敏明さんに電話をして参加の承諾をもらいました。24日の午後、新長田駅の噴水前に行くと松村さんが待っていてくれました。1年ぶりの再会ですが、腰痛に悩まされながらもお元気な様子にホッとしました。

 

 シェアハウスRe-SmileNPO法人ウィズアスの事業の一つで、3年目を迎えた現在、男性が4人、女性が5人居住しているそうです。ウィズアスは1993年社会福祉法人えんぴつの家のライフディケア事業から始まり、現在は生活・居宅介護、就労継続支援等さまざまな事業に取り組んでいます。代表は鞍本長利さんで、震災前に神戸を訪れた時にベーカリーでお会いした男性です。ちなみにRe-Smile4階建ての素敵な建物でした。

 

 Re-Smileの見学の後、住んでみえる方々との交流が持たれ、改めて「どこで誰とどんな暮らしをするか」を考えました。家との違いは「自由に料理ができる」「自由に行きたい所に行ける」「門限がない」などで、特に不満や困っていることはないとのことでした。松村さんの話によると、皮肉なことに阪神大震災で「避難所暮らしをしたこと」が自立のきっかけになったということでした。「自由」という言葉の重さを噛みしめ、来年の職員研修はウィズアスだと確信して帰路につきました。

 

 グループホームの次は他の「住まいのあり方いろいろ」を探ってみたいと思っていますが、シェアハウスも選択肢のひとつです。しかし今回のシェアハウスは車椅子の人たちが中心で、グループホームでの生活が困難になった方(全面介護になりスタッフが不足等)の住まいだったのでステップワンとは事情が異なります。「グループホームは嫌だ」と思う人のための住まいにはどんなものがあるのか、まだまだ手探りの状態です。いろいろと出かけてみることから始めようと考えています。

 

 

 

 

豊能障害者労働センターを訪ねて(その3)

 

  研修の場で私たちに事業の説明をしてくださった豊能障害者労働センター副代表の新居良さんには「箕面市における障害者就労の取り組み ― 豊能障害者労働センターと障害者事業制度の発展 ―」という文章がありますので、参考にさせていただきながら紹介したいと思います。

  箕面市の社会的雇用制度は、市が障害者への賃金補填と支援者、設備への助成をすることで、
障害者の働く場を確保し、経済的自立が可能な最低賃金を保障していくものであり、一方、補助を受ける事業所は、重度の障害がある人も能力や適性に応じて働けるよう職種開拓・職域拡大を行い、障害者の経営参画などを図るもので、箕面市において20年以上にわたって続いている独自の制度です。

 新居さんは歴史的経緯として何期かに分けて書かれています。

<1981年~1986年 重度障害者の働く場を生み出す市民の運動からの提起>

 発端は1982年、養護学校を卒業した一人の脳性まひの少年の「どこにも行くところあらへん」という叫びから生まれた豊能障害者労働センターにあります。「どこにも行くところあらへん」の時代背景は次のようなところにあります。

 各地での反対の運動がありながら1979年養護学校が義務化されています。自身が当時の「特殊学級」担任となったのが1978年ですから、ちょうどその頃です。当時は養護学校の何たるかも分からず、中学校の特殊学級の担任の大きな仕事は「卒業生の仕事さがし」とばかりに工場や商店を軒並みにかけずり回っていた時代です。養護学校の高等部のない時代は、高校進学がままならないことで、障害児の親は「在宅か施設か」を迫られることも多くありました。現在の小中学校の若い先生方にそのことを話してもピンとこないようです。当たり前ですが…

 豊能障害者労働センターは市民の運動が母体となり、障害者2名、健常者4名で出発します。収入源は、他人介護料を利用したヘルパーの所得、粉石けんの販売をはじめとする自主事業、カンパ活動の所得の合計であり、ここでも「財布は一つの原則」が貫かれます。このような共同性は「当時、重度障害者の働く場を生み出すに当たって、いわば生きるための命綱であった」とのことです。

 

 

 

 

 

豊能障害者労働センターを訪ねて(その2)

 

 「どこにも行くとこあらへん!」という養護学校を卒業した一人の脳性まひの少年の叫びから始まった労働の場づくりは、当然のように平坦なものではなかったことは容易に想像がつきます。その一端でも知ることによって、いろいろな面で改革・改善を試みようとするステップワンの職員の意識が変わればとの思いの研修でした。

 先ずは「分け合うのが原則」という発想がステップワンにはなかっただろうと思います。能力主義の問題やその克服については意識を持っていても、現実的に例えば給与についても分け合うという発想は出てきませんでした。そういった問題について、副代表の新居さんからお話を聞きました。

 「最低賃金はクリアしているけれど、分け合うのが原則なので何年経っても昇給しない」という話に、ステップワンの職員は自分の生活を振り返りながら衝撃を受けただろうと思います。

障害者も健常者も金額的には同じくらいで、一人暮らしだと家賃分くらいの手当があったり、年金をもらっていない人は上乗せがあるそうです。健常者は家族がいると共働きで何とかやりくりしているとのことでした。障害者労働センターに勤めて長い人は長く、どこでも同じですが一般的に年齢が高くなってきているようです。

 「給料のことは予め分かっています。要は働きがいにつながっているかどうかではないですか?」の言葉、そして「楽しければやりくりするもんです」に、もう一度「働くって何だろう?」と考えた私たちでした。

 新居さんからは箕面市の障害者事業制度について詳しく教えていただきました。次回から紹介したいと思います。

 

 

 

研修報告

 豊能障害者労働センターを訪ねて

 

   529日(月)、今年も県外研修に出かけました。去年は神戸市の「えんぴつの家」でお世話になりましたが、今回は大阪箕面市にある豊能障害者労働センターを訪ねました。会報にも書きましたが、ステップワンが誕生した頃は大阪や兵庫の方々に作業所作りのノーハウ、コンサートの企画や運営についてたくさんの教えをいただきました。そんな縁もあっての「大阪へ行こや!」になりました。

   事前にセンターから行程を送っていただき、箕面駅からの道筋も詳しかったので無事に豊能障害者労働センター事務所に到着。「キャベツ畑」のお弁当をいただきながら事務所の雰囲気や人の動きを見ながら、「なんか自然やなあ‥‥」と当たり前のような感想。お弁当は職員の皆さんと同じのようで、担当の方が職員の方に「味はどうやった?」と食後にミニアンケートのようなことを始めたので、こちらに回ってきたら何と答えようとヒヤヒヤ。しかし本当においしい焼肉弁当でした。午後1時になると、誰からともなく機関紙発送作業が始まりました。作業を見せていただきながら障害者事業所制度、通信販売、機関紙発送などの事業について障害者スタッフの皆さんから説明を受けました。その後、リサイクルショップの見学へと移りました。長くなりそうなので詳しい報告は後日にします。

 

  何はともあれ、1982年養護学校を卒業した一人の少年の「どこにもいくところあらへん!」という叫びをきっかけに生まれた豊能障害者労働センターと1985年「昼間だけでも居る場が欲しい!」という障害者の親の声をきっかけに作業所作りを始めたステップワン。同じような想いが原点としてありますが、理念を現実に移していく上で大きな差が生まれてしまいました。どうすればステップワンが変わっていけるのかを視点に考えていこうと想います。

 

 

「春の討論集会」に参加して

 

自然に」が一番むずかしい

 

宮崎 吉博(三重県 伊勢市)

 

 

    村上健一さんのエッセイに魅せられて

   久し振りに「こんな人に会ってみたい!」と思ったので東京に出かけました。

 「ゆきわたり」2月号に掲載されている村上健一さんの「正月、電動車いすで、厄払いに行ったとき」を読んでその痛快さに気分が昂ぶり、村上さんという人に会いたくなって咄嗟に東京行きを決めました。

  ところで、「春の討論集会」への参加は一体何年ぶりになるんだろう? 篠原さんとは何年会ってないんだろう? そんなことを考えると余計に気持ちが募りました。でも東京は遠い。そこで気持ちを固めるためにNPO法人ステップワンの会報に「この一年 ~『そよ風のように街に出よう』の終刊と時代の終焉~」と題した文を載せて、村上さんの文を紹介する了解を得るためにどうしても東京に行かないと(本当は電話で済むのですが)。そんな気持ちにしました

   この一年、さまざまな出来事がありました。「西の『そよ風』、東の『福祉労働』」とも呼ばれる関西の「そよ風のように街に出よう」が終刊を迎えることになり、更に編集長の河野秀忠さんの転倒事故に続く入院、リハビリと辛いニュースが続く中で、相模原障害者殺傷事件が起こりました。障害者差別解消法が施行された年にです。何かひとつの時代が終わりを迎えているような気がしました。そんな雰囲気と共に歳の所為か、自分の心身が大きな事件の衝撃に耐えられない脆さ、何もできないことのもどかしさ、いままで何をやってきたのかという後悔、そんなものがない交ぜになって重い気分のままでした。そんな時に村上さんの文に出会ってホッとしたというのが本音です。これは「是非とも、みんなに読んでもらうために了解を得なければ」と考え、東京に出かけて大正解でした。

 

 「合理的配慮」ではなく「自然に手伝う」って?

   春の討論集会。先ずは村上さん。「この人は想像したより大きい(人物は勿論大きそうですが、ここは身体です)」、失礼ですが第一印象です。地元の神社の人たちの動きが目に浮かぶようです。ステップワンには巫女さんを経験している職員がいて、神職さんの連れ合いさんと「前にいた神社はどうだったか?」と話題にしてくれたとのことです。おそらくは村上さんが「まだまだ世の中捨てたもんじゃない、あったかいよ」と表現した雰囲気を大切にしながらの会話だったのではないかと嬉しくなりました。

  村上さんは日常生活の中で出会ういくつかの事例を挙げ、「合理的配慮云々」ではなく「自然に手伝う」「自然な姿」の大切さを話されました。そこで僕は「自然な姿って何だろう?「自然に はどうやってつくられるんだろう?」と、おそらくは答えようのない問いかけをしてしまいました。

   村上さんは「路線バスの真ん中のドアから乗ると跳ね上げ式の椅子があり、そこに座っている人にはどいてもらうことになる」と話されました。乗り慣れてはきたものの違和感はあるそうです。5分くらいかかるから、きっとイライラしている人もいるんだろうと思うそうです。みんながみんな気持ち好くとはいかないだろうし、同じ人でもその日、その時の気分や置かれた状況によってさまざまだろうと思います。ここは要するに「自分でどう納得するか」だろうと思います。例えば、大変だなあと思いながら待って見ている人、待たされて不愉快だと思う人、自分も何かできないかと思う人、いろんな思いがあるのでしょう。いくら合理的配慮の学習をしても、その場その時の気分を好い方に向けることはできないだろうと思います。それよりはそういった場面に何度も出会っていくよりないのではないでしょうか。それこそ自然に慣れていくことが一番なのでしょう。

   今泉さんも幾つかの事例を紹介しながら「温かい目で見守ってほしい。本当に困っているかどうかは聞いてみないとわからない。声をかけて」「何よりも身近に障害者がいることが大事」と話されました。いずれにしろ自然に一緒にいることの大切さを感じました。

   今泉さんの話で興味深かったのは、障害者の中でも温度差があるので「何でそこまで他人にやってもらうのか?」と思うこともあるそうです。身近にいる障害者や親の中にも同じようなことがあり、どこでも一緒だなあと思わず苦笑してしまいました。

 

  「合理的配慮」からの逸脱OK!に納得

   自分としては合理的配慮のマニュアルと自然な姿は相容れないものであると考えていた節があります。障害者差別解消法についての研修で話をすることがありますが、必ずと言っていいほど「合理的配慮の具体例を教えてほしい」という要請が多く、自分の話したい法に至るまでの経過や国際的な歴史や背景には余り関心がないようです。健常者中心の合理的配慮の研修会やマニュアルの作成が続く中で、法と引き替えに何かを失ってしまうような気がしてなりません。そんな思いもあって、人の言葉や行動は決めたように一律にはいかないから必要なのはマニュアルじゃないだろうと考えていました。

   村上さんは「マニュアルは必要だろう。そこから先、逸脱することがあってもいい」として、「あくまでも例であるので、自分にどう落とし込んでいくかではないか」と話されました。そうなんだなと納得しました。どうも研修の場で「どうすればいいのか」ばかりにこだわる人を多く見てきてうんざりしていた所為かもしれません。これからは「自分の生活の中でどう自分のものにしていくかですよ」と話してみたいと思います。合理的配慮という言葉を知らなくても、それと同等かそれ以上のことを易々とやってしまう人がたくさんいます。それは講演や研修会で身についたものではないんでしょう。どうやって自然に身につけていったのでしょう。やはり「自然に…」が一番むずかしい。

   村上さんの文章で秀逸なのがフェイスブックのくだりですが、神社での一連の動きを「しっかりとした合理的配慮」とコメントした方と村上さんとのズレも、公式(マニュアル)と自然体というか、この辺りにあるような気がします。

 

 東京はどんどん地下へと発展?!

    だから、バリアフリー化?!

   篠原さんからは、「地元のバリアフリー化の現状は?」といった問いかけをいただいたのですが、うまく現状を話せなかったような気がします。地元の市長はバリアフリーに熱心だし、伊勢志摩バリアフリーセンターがあり観光にかなり役立っており意識もかなり高い団体で行政をリードしているように見えます。ただ東京を歩いてみて思ったのは、バリアフリーの重要さが田舎とは格段に違うということです。田舎なら数人の人の手を借りて済むことが東京では不可能な気がします。どんどんと地下へと発展(?)していく都会、下を見るだけでも怖くなるエスカレーター、駅の構内だけでもどれだけ歩くのか、大きな荷物を持っているとそれだけで邪魔になるような人の混雑、それはいろいろな工夫がいるだろうなと思いました。優先席でなくてもほぼ座れる電車に乗り慣れている人間には、東京では話題になるマークやバッジもなじみがありません。おそらく地元の人には「そんなものまであるの?」という感じだと思います。

   とにかく行って良かった「春の討論集会」であり東京でした。夜遅くなるとほとんど人通りのない田舎の駅に降り立ってホッとした次第です。

 

 

 

 

 

正月、電動車いすで、

 

厄払いに行ったとき

 

村上健一(東京・町田市)

 

 

 

 先日、こんなことがありました。

  今年、大厄にあたり、厄払いで地元の神社へ。神社の社殿へは階段が数段あったはず。

  電動車いすに乗って生活している私ですから、行けばひと騒動あるだろうと躊躇っていたのですが、大厄というのも気になって、やっぱり向かったのでした。

到着後、社殿を一周見渡し、中へ入るスロープなどがないことを確認。

神社の脇の駐車場に、車払いの方はこちらでという案内を見たので、最悪ここで形だけでも厄払いか、車いすの車払いでもしてもらうかなどと、自分なりに笑える落ちも見つけたところで、いざ受付へ。

「大厄の厄払いをお願いしたくて来たのですが」

受付に座っていた人は私を見ると、首を伸ばしてのぞき込み。

「少々お待ちください」

受付の奥では、さてどうしたものかと話し合いがされているご様子。

数人が、受付のある建物から出て行きました。

ある人は、神社の本殿を確認しに行ったようです。

またある人は、僕の車いすの具合を少し遠くから確認し、「大きいな」などとつぶやいているようでした。その人たちが戻ると、受付の奥も慌ただしくなってきました。

こうなるよねとは思っていたので。

「あの~、出直しましょうか? あるいは

「大丈夫です。もう少しだけ相談させてください」

ついには祈祷師さんや巫女さんらも集まり、あーでもない、こーでもないと。

いやぁ、やっぱり大ごとだ。

まぁ事前に連絡もしていなかったし、ここは少し引いてみよう。

「あの~、車払いはそこの駐車場で行うんですよね? そこで払ってもらうわけには

「いえいえ外は寒いですし、もう少々お待ちくださいね」

 駐車場ではどうだこうだという声が奥から聞こえた後、しばらくして。

「今、板をお持ちしますので」

「え、板? 板があるんですか?」

すると神職さんたち数人が、えっさほいさと数枚の板のようなものを運んできました。

「これでどうですか?」

「これ駐車場の看板じゃないですか! まさかスロープにですか?」

笑顔でうなづく神職さん。

「いやバチが当たりますよ、割れちゃいます。仮にこれが頑丈な板だとしても長さが足りないです」

別の神職さんが手を挙げます。

「では大急ぎで物置を片付けますので、そこでいかがでしょう?」

「それも申し訳ないですよ、僕は外で全然構わないですよ」

すると巫女さんのひとりが。

「現在数名の巫女がおります。巫女は若くて力もありますし、何名いたらこの車いすは持ち上げられますか?」

この提案にはびっくり。神職さん達は皆ご高齢、なるほど、巫女さんに神輿のように運んでもらって、ミコにミコしでこりゃ年の初めから縁起が

「いやいやいやっ、やめましょう。ケガさせちゃったら大変です」

そうこうしていると祈祷師さんが。

「では私がここまで降りて来てお払いいたしましょう、外でもよろしいですか?」

「はい、ありがたいです」

 

青空の下の公開厄払い。

社殿の中の様子が見えるように、普段は閉じている扉を開けてお払い開始。

お払いの言葉が聞こえないからと、先ほどの巫女さんが私の後ろについて解説を。

いいんです、これが一番平和な形です。

祈祷師さんが僕の前まで降りて来てシャンシャンシャン。

最後に巫女さんにお神酒を飲ませてもらって、厄払いは無事終了。

それにしても神社の皆さんには、本当に感謝。

いやぁ寒空の下でしたが、温かい、なかなかメモリアルな厄払いとなりました。

―という体験談をFACEBOOKにアップしたんです。

するとある人が、「両者建設的な対話がなされて、しっかり合理的配慮をしてもらえましたね、いいお話です」と、コメントを寄せて来たのです。

 

 ちょうど榎本さんから春討で「障害者差別解消法」「合理的配慮」をテーマにしゃべってほしいと言われ、放っておいてくれよ、合理的配慮なんて意識して生活していない-と

逃げていた最中の出来事。

 私はコメントをもらうまで合理的配慮の合の字も意識していなかったし、むしろ、久し振りに街中で、ごちゃごちゃとせめぎ合ったぞと思って、まだまだ世の中捨てたもんじゃない、あったかいよってアピールもしたくてFACEBOOKにアップしたつもりだったので、ショックでショックで。

 春討のテーマはその後「バリアフリー化の現状を歩く」に変わったようですが、これは逃げずに一度向き合ってみないとなと思うきっかけとなりました。

 

 同じくお話をする今泉さんは,大学の先輩で,私の師匠的な存在です。私が学内で授業を受けようとするも,車いすで階段を越えられず(学生の手を借りて持ち上げてもらうやり方)、部室へ行くといつも煙草をふかしていた先輩です。目ぇ見えないのに上手に(見る人によっては危なっかしくて仕方がないようですが)煙草に火を付ける人だなぁ、これが先輩の第一印象。煙突を立てながら先輩は、「まぁそんな日もあるさ」と。「介助を頼む時もがっついて頼んだらビビられるよ、うまく行きゃラッキー、うまく行かなきゃまた次でってくらいでいいんじゃない」「カップルに頼んでみな、男は女の前ではかっこいいとこ見せようとするもんだよ

  今泉さんからは、学生生活の送り方(サボり方)と介助を頼む時の距離感、それと煙草を教わりました(笑)。当時僕はまだ手動の車いすでしたが、目の見えない今泉さんが僕を押し,僕が目となって、いろんなところに遊びに行ったりもしたものでした。

  そんな今泉さんと篠原さんとの語り合い。篠原さんは僕のゼミの担当教員であり、入学前の面接の時から学内生活も、その後もずーっとご指導いただき、昨今では,昨年、私の結婚式の時にこれでもかってくらい熱く長い乾杯の音頭を取っていただいた御仁です。

 「ゴチャゴチャと居合う中のせめぎあいの関係性こそ」を学生生活の中で私が経験していった,議論し合った時代に,とても近くにいた二人との対談。内輪な雑談にならないか心配ではありますが、とても楽しみでもあります。

 「合理的排除」、あっ、いや「合理的配慮」でしたね。私は好かんです、この名称。どんなものなんでしょうか。

 当日はよろしくお願いいたします。

 

 

 

 2月5日(日) 人権講座を開催しました。 ステップワン作業所に 鈴木健一伊勢市長にお越し頂き、「これからの福祉」についてをお話を頂きました。 

 

 お話を聞かせて頂いて感じた事があります。鈴木市長はとても福祉に力を入れていると思いました。「福祉の人材育成」「現場の声を!」この2点がとても印象深く残っています。私自身のことも含めて、人材育成はとても大切だと思います。人を育てる事はとてもとても難しいです。毎日が手探りのような状態ですが、「人材育成」なくしては将来の展望がないと考えます。

 次に「現場の声」を大事にする事によってよりよい支援に結びついてくるのではないかと思います。果たしてそれができているのか考えていきたいと思います。

最後に、コミニューケーションが難しい方の気持ちも大事にしたいと思いました。

 本当に今日はありがとうございました。

 

 

 

研修報告

研修名 えんぴつの家

場所  神戸市三宮

日にち H28.5.16

 

研修内容

・パン工場の見学

・自立センター見学

・ケアホームの見学

・「えんぴつの家」の設立についての説明を聞く。

 

 

職員の感想

Aさん

・ 利用者の方が全員で楽しめるように、支援員の全員が同じ方向で進んでいけるようにする事が大切だと思いました。今後は若いボランティアさんの力がとても大切だと思いました。生活の中で一つでも出来る事を増やしていく、地域に出かけ利用者さんの事を1人でも多くの人に知ってもらいたいと思いました。

 

Bさん

・ 松村さんの揺るぎない信念が利用者・支援員全体に伝わっており、上手く運営されているのだと思いました。

 

Cさん

・ ボランティアさんを増やしていきたいと思いました。

 

Dさん

・ 障がい者が当たり前の生活をするという事は、難しく複雑な事なのか・簡単でシンプルな事なのだろうか。

これからも利用者の笑顔がたくさんみれるように過ごしていきたい。

 

Eさん

・ たくさんの人数だから出来る事、少人数だからこそできる事、規模や環境は違っていても、今のステップワンに足りない事、一番大事な事は何かについて考えさられました。

1人ひとりが自信を持ち力強く笑顔のある姿が印象的でした。

 

Fさん

・ 今、できる事は一体、なんだろか?やれる事はどんどんやっていきたいと思いました。その為には、様々な方のご協力・ご支援が必要だと感じました。とても良い経験となりました。

 

  5月15日(日)の新道のお店「すてっぷわん12周年記念バザー」の代休を利用して、16日(月)に職員研修で神戸に行ってきました。ステップワン作業所を立ち上げる時、お手本としようと思ったのが「えんぴつの家」でした。当時は学校の先生をしてみえた松村敏明さんを訪ねてステップワンの何人かで見学に行きました。作業所を立ち上げるかどうかで迷っていた頃、東京の北村小夜さんから「いいとこさがしよりは、いいとこを作ったほうが良い」と言われ、その言葉を頼りに動き始めた30年近く前のことです  

 久しぶりにお会いした松村さんはとてもお元気で、「えんぴつの家」の歴史などをお話しいただいた後、パン工場、自立センター、グループホームなど数か所を案内していただきました。職員の体制が大きく一変した今のステップワンにとって、とても意義深い研修になりました。何よりも松村さんの姿勢そのものに感銘を受けたようです。感想や報告は随時、掲載していきたいと思います。

 

 

 

ステップンが原点としている場所

神戸にある「えんぴつの家」です。

 

「地域でともにいきる」事を大切にしている場所です。

 

原点を大切にし、活動していきたいと思います。

今後もご支援・ご協力よろしくお願いします。

 

 

 

今後も研修報告を更新していきます。