「グループホーム」考 その4

 

  いま本当にグループホームが必要なんだろうか? 立ち止まって考えてみるると、「作業所の次はグループホーム」という思いに縛られ、当たり前としてきた前提が揺らぎ始めている自分がいます。

 親の話し合いの中でも「どうしても欲しい」親と「そうでもない」親に分かれます。同様に、障害者も「入りたい」人と「入りたくない」人、意思が明確でない人に分かれます。当然のように、入りたい障害者が居る限り作るべきだと思います。ただ法人全体として進めていこうとする場合、できるだけ一体となって動くべきだろうと思います。何をするにも人にはいわゆる温度差がありますから仕方がないのですが、なかなか「一致団結して」にならない場面もあります。

 親が若く、いまは必要でないとする人も「いずれは…」と考える人もいます。自分の年齢を考えた時、この「いずれは…」にどこまで付き合えるのかも心配です。法人にとっては大事業ですから、「もう一棟が完成したらそこで落ち着いてしまうのではないか?」「次の事業に進んでいくことが可能なのか?」を心配する人もいます。

 結論を出す時期が迫っている中、資金繰りと同様に法人全体としてどう意識をまとめていくかが課題です。 

 

 

 

「グループホーム」考 その3

 

  障害者権利条約の第19(a)には「障害者が、他の者との平等を基礎として、居住地を選択し、及びどこで誰と生活するかを選択する機会を有すること並びに特定の生活施設で生活する義務を負わないこと」とあります。

   ステップワンに関わる障害者がどこで誰と生活したいのか、このことを見極めることが最重要課題です。ここがはっきりとすれば、自ずと居住地が何になるかも明確になります。しかしこれは容易ではありません。特に知的最重度と呼ばれる障害者が「どこで誰と生活したいのか」を見極めることは至難であり、親にしても職員やボランティアにしても手探りの状態が続いています。ステップワンには自分の意思表示を言葉で行う人もいれば、全く言葉を使わない人もおり、言葉以外の身体の動きをどう判断していいのか不明な場面がある人もいます。

 グループホームについては、「(これまでの体験から)皆と一緒にいるのは楽しいからグループホームがいい」という人もいれば、体験以前に拒否の姿勢をはっきりと見せる人もいます。意思表示のある人については本人の希望が見えることで先ずは間違いないだろうと判断できます。そうでない場合は、やはり親や家族の選択が優先されることになります。

 障害者権利条約においてもそうですが、多くの障害者に関わる施策にしても障害者の「選択」をどう考えるかが大きな課題だと考えます。法や条例にしろ施策や対策にしても、すべての障害者を障害者一般として括ってしまうことについての疑問がここでも浮かんできます。

 グループホームについても単なる必要論だけでなく、他の視点からも考えてきましたが未だに方向についての思いはさまざまです。そんな中、第2棟の建設についての決定時期が近づいています。禍根を残さないためにも話し合いを続けていきたいと思います。

 

 

 

 

「グループホーム」考 その2

 

 「脱施設化」の流れは相模原障害者殺傷事件以降さらに進むだろうという意見もありますが、本当にそうなるのでしょうか。希望的な観測だけで、障害者と呼ばれる人たちが「本当に誰とどこで住みたいのか?」といった議論にまでは進んでいないような気がします。というより、「そんな議論すらあるのか?」と言われれば、自分の周り以外では聞いたことがありません。

 大きな施設のありようについては事件以前から問題視されていました。これは障害者だけに限ったことではなく高齢者や子ども、病気の人たちなどのさまざまな施設がある中で、規模が大きくなればなるほど当然のように問題は量的に増え深刻になりやすい傾向にあるからでしょう。ただ、規模の大小に関わらず、施設そのものが問題を抱えていることも事実です。そして、グループホームも施設と言えば施設なんだろうと思います。

 新しいグループホームの構想を巡る話し合いの中で、自分自身がはっとさせられたことがあります。長くボランティアを続けている人が「やっぱり家族と住むのが一番じゃない」と、ふっと言ったのです。当たり前と言えば当たり前のことなのですが、グループホーム建設ばかりに思いが行っていた自分には何故か新鮮でした。「その通り」なんです、「みんな、そう」なんです。

「しかし、そうはいかない」からこその話なんですが、時として忘れてしまいがちな肝心な部分を指摘されたような気持ちになりました。

 24時間の見守りが必要な人は障害者だけに限りません。そんなすべての人たちが在宅で過ごせるだけの社会資源の揃う日がやって来ることが、今の段階では想像すらできません。そんな中でグループホームの果たす役割とは何だろう? 問題はどこにあるんだろう? 今後、どんな展開が予想されるのだろう? そんなことを考えていきたいと思っています。

 

 

 

「グループホーム」考

 

 NPO法人ステップワンは現在ステップワン作業所と新道の店「すてっぷわん」、それにグループホーム「ステップワンハウス ぱれっと」を運営しています。グループホームは一棟しかありませんので今は女性が入居しており、女性と男性が年度ごとに交代で居住する形態を取っています。親の高齢化とともに新棟の必要性が高まり、その建設に向かって邁進しているところです。そんな中で、前回記したように忘れてはならない大事な視点を見失いがちになりそうなので、「グループホーム」考と題して書いていくことにします。

 グループホームの構想や建設についての話し合いの中で、私たちは時に「親亡き後」という言葉を使います。特に障害が重いとされる人の将来について語られるときに、最重要課題のようになることがあります。私自身も使うことがありますが、実はかなり抵抗のある言葉なのです。

 支援やボランティア活動に従事する者が、障害者やその親の向かって「親亡き後を考えなければ…」というとき、極端な言い方をすれば「脅し」のようになっていないかと危惧しているのです。「親亡き後」を考えないのは展望がない親である、そんな迫り方になっていないかと心配なのです。現在を生きることで精一杯なのは誰しも変わりのないことなのに、自分自身が亡き後の子どもの将来を真剣に考えたこともないのにと反省するのです。

安易に「親亡き後」という言葉を使うことで障害者親子を苦しめたり、市民の同情や関心を惹くようなことだけは避けたいと想っています。そういえば「共に生きる」を目指した人たちの中では、「親亡き後」という言葉の使われ方を危惧していた人が何人もいたように想います。

 グループホーム建設が現実味を帯びる中、利用者の人たちが「本当はどこで、誰と住みたいのか?」という問いとともに考えていきたいと考えています。

 

 

「ひっそりと、ゆっくりと、しっかりと」その2

 

 「ぱれっと食堂」の構想はあったものの実現には半年ほどの時間がかかっています。その間に相模原障害者殺傷事件があり、このことが実現踏み切りの大きな一つの要因にもなっています。

 地域ではなじみのない障害者のグループホームがどのように見られているのか、私たちはとても不安で心配の種は尽きることがありません。だからこそグループホームを知っていただくためには、より開放的に積極的に地域に出ていくことが第一だと思いました。グループホームを開放して先ずは来ていただき、建物や生活の様子を見てもらい、誰が住んでいるのか知ってもらうことが大切だと考えました。勿論、障害者の暮らしの場ですから無制限に開放することはできませんが、イベントや行事での出会いを通じておつき合いが広がっていけばと願っています。

 相模原の事件を契機に大規模な障害者施設の在り方が問われています。事件がきっかけとなり安全管理が第一の課題となり、入所施設がこれまでよりも更に閉鎖的になっていくおそれがあります。何事についても同じですが、隔離することにより偏見や差別はより大きく深刻なものとなっていくと考えられます。

 また今後の障害者の暮らしを考えた場合、大規模な障害者施設の建設と10名程度の小さなグループホーム建設とを比較すると、グループホームの方が予算的に軽減され工期も短縮できるといった意見もあります。街の中に小さな規模のグループホームが誕生すれば、家庭で暮らすのと同じような生活のイメージができるのではないでしょうか。私たちも小さな規模のグループホームが数多く誕生することを夢見ています。ただグループホームの在り方を考えたとき、忘れてはならない大前提があります。

 「障害者の人が誰とどこで住みたいと思っているのか?」 これが私たちの大きな課題です。グループホームの建設や運営ばかりに力を注いでいると、一番大事な視点を忘れてしまいがちになります。「グループホームを建設することが目的化し、肝心の障害者の思いを酌み取ることができなくなったら何のための施設なのか?」ということになりかねません。あらためてみんなで「しっかりと考える」ことが大切な時期を迎えました。

 

 

「ひっそりと、ゆっくりと、しっかりと」

 

 昨年の秋からグループホーム「ステップワンハウス ぱれっと」で地域食堂を始めました。当初は全国でも広がりを見せている子ども食堂を伊勢市でも実現させたいという思いがありました。全国ニュース等でも取り上げられた所為か、子ども食堂の話をすると各所で関心を持った人たちに出会い、中には一緒にやりたいという人もみえました。ただ貧困というテーマを前面に出した場合、はたしてそれで子どもたちが集まってくるのかという疑問は消えませんでした。そこで「地域の中で共に生きる」を掲げるステップワンは「まずは地域だろう」ということで「地域食堂」というフレーズを使うことにしました。

 今のところ地域を謳いながら、なかなか地元の方への浸透が乏しい現状です。ただ「ひっそりと、ゆっくりと、しっかりと」をキャッチフレーズにしていこうと考えています

 ひっそりと地域で続けていきたい、ゆっくりと焦らずに広げていきたい、しっかりと根付いたものにしていきたい、そんな思いでいます。なかなか地域の中でもなじみのない障害者のグループホームは知ってもらうことが第一です。こういった活動を通して「子ども食堂」にもつながっていければと願っています

 

 

 

命の重さと「共に生きる」3

 

  いま福祉の現場では人材確保が大きな課題となっており、この問題の解決や改善にはまだまだ時間がかかりそうです。というより、ますます状況は悪化していくのではないかという危惧さえあります。全国的にも各地域にたくさんの高齢者のための施設が建設され、高齢者や障害者のためのサービスが数多く展開されています。問題は施設やサービスの増加・増大と共に、その仕事に携わる人材もそれだけ必要だということにあります。当然、施設やサービスに見合うだけの人数が量として必要となるわけですが、問題はその仕事に相応しいだけの資質や力を持った人がどれだけいるのかということです。

 

福祉の現場では人員の不足から、人物を問わずに採用しなければ成り立たないといった状況もあるようです。どれだけ求人を出しても応募がなく、応募があれば即採用といった声も聞きます。新聞の折り込みチラシは常に福祉の現場の求人広告がかなりのスペースを占めています。この状況の根幹には、福祉に携わる事業所の給与が余りにも低いということがあります。給与改善のための方策が次々と打ち出されていますが根本的な解決には至っていません。この状況が続く限り、福祉の状況は低迷したままということになるでしょう。そのことが高齢者や障害者に対する施設内での虐待をはじめとする非人道的な行為につながっているように思えてなりません。

 

そのことが起こす延長線上に今回の相模原の事件もあるように思えます。犯行を供述している容疑者の危険な考えや思いは施設の中で膨らんでいったのではないかと思われます。危険性を感じていた施設や警察に打つ手はなかったのかという失望感もありますが、彼がこの仕事に携わらなかったらとも思います。障害者や高齢者の施設で、採用されて間もなく言動が乱暴になっていった人の事例もあります。こういった事例があることの原因を探っていくことも重要なのではないでしょうか。

 

最近、様々な会議や研修の場で、そしてステップワンに関わる事業の展開の中で、「えっ?」と思うような福祉関係者の言葉に出合うことがあります。どうして、この人が福祉に関わっているのか?どうしてこの人の生業になり得ているのか? 余りにもひどい時には注意をしたり抗議をしたりということになりますが、不思議と当の本人には様子がつかめないこともあるようで…

 

 質の確保のためには何が必要なのだろうか? 考えさせられる毎日です。

 

 

命の重さと「共に生きる」2

 

 相模原市の障害者殺傷事件から1ヶ月余りが過ぎ、新聞各紙には様々な視点からの記事や報告、論評等をはじめ、被害者の家族や友人、事件に衝撃を受けた障害者や親・家族、施設や障害者運動に携わる人たち、福祉担当者や教職員、学識者など、多数の人たちが事件について語っています。この国の犯罪史にも例を見ない余りにも衝撃的な事件であったことや全容が掴みきれないことから論点が絞り込めていない気がしますが、今後も様々な視点からの発言が続くことが事件を闇に埋もれさせないことになると思います。

 

「遺族への配慮」という理由で、未だに犠牲者19人の氏名が公表されていません。実名が公表されないことによって、これまでの凶悪事件のように怖ろしさの実感が伴いにくく事件が風化し忘れ去られて行ってしまう危険もあります。「今回だけの特例」という言葉が示すように、問われているのは障害者を特別扱いしてきた私たちの歴史にあります。遺族や関係者に匿名を望ませる社会の中の偏見や差別についての論究が始まることを期待しています。また、障害者への差別的感情をなくしたいという理由から実名で新聞の取材に応じる家族もみえるそうです。こういった願いを大切にする社会になってほしいと心から思います。

 

NPO法人ステップワンの作業所やグループホームには、同じように障害が「重い」とされる人たちが生活しています。言葉による意思疎通が難しい以上、私たちの多くの営みが手探りであることは否めません。何とかわかろうと努力はするものの、常に自分の思い込みなのではないかという疑念がなくなることはありません。家族ですらわからないという行動に途方に暮れることも度々ありますが、逆に言葉ででしかつながれない人間関係に危うさを感じることもあります。容疑者の供述の中に「意思疎通ができなければ動物」という言葉があったようです。献花台を訪れた人の大半が「理解できない」と否定されたようですが、自分自身が問われていることを明らかにしていく必要があるように思います。そのために言葉を使うにしろ使わないにしろ、生きている以上どういう関係が創り出せるのか、そのことに懸命になれる施設を目指していきたいと思っています。

 

 

命の重さと「共に生きる」

 

 神奈川県相模原市の障害者施設で19人の障害者の命が奪われるという事件が起こりました。逮捕された容疑者は「障害者は死んだ方がいい」と日頃から話していたと報道がなされています。容疑者の状況が詳しくわかりませんが、日頃から彼が口にしていた言葉が事実なら、人の命や人の幸・不幸をどう考えるかに関わる大きな問題です。

 

「人が幸せであるかどうか」については本人にしかわからないことは明らかですが、時としてそれを周りの人間が判断するという過ちが繰り返されてきた人類の歴史があります。特に障害者にとっては、存在そのものを脅かす思想として残っているのかと思うと愕然としますが、その根底には能力主義が連綿としてあります。

  要するに「できる」「できない」で人を分け、「できない」ことを否定する考え方、「何もできないなら死んだ方がいい」という人間としての恥ずべき思い上がりです。選民思想とも呼ばれる考え方は悲しいかな人類の歴史に悲惨な出来事を繰り返し残しています。

 

彼は「被害者の家族には謝罪をしている」と報道されています。被害者本人ではなく家族に謝罪という点が、まさに選民思想です。つまり家族は同じ仲間だが、障害者はそうではないという考えです。こういった思想が共感される素地が、今の時代にも残っているとしたら大変怖ろしいことですが、否めない現実としてあると思います。そしてこの能力主義が日常の社会の中で、決して他人の問題ではなく自分自身の中にもある克服すべき課題としてあることを深く認識することが大切だと思います。

 

私たちは「共に生きる」を掲げています。「共に生きる」ことは、ある意味で「しんどさを共有する」ということでもあります。健常者が感じる「受け入れにくさ」は、障害者にとって「生きにくさ」につながっていることを忘れてはならないと思います。

 

 昨夜、娘が帰宅すると「今回の事件を、周りの人は大麻の所為にしているけどおかしくない?」と話してきました。彼の過去の言動や事件後のことまで考えていた背景からすると、決して単純な薬物の問題ではなく、「彼は正気だったからこそ怖ろしい」と考えざるを得ないような気がします。そのことの方が本当に怖ろしいのですが。

 

 

「新しい幸福論」という新書(その2)

 

   橘木さんの本で自分が興味を持った二つの貧困の定義について彼の著作から引用します。

 「絶対的貧困」と「相対的貧困」の説明が岩波新書「格差社会 何が問題なのか」で次のように述べられています。

 「絶対的貧困」は「各家計がこれ以下の所得だと食べていけない、生活できない、という意味での貧困です。食べていくのに必要な額は各地域によって違いますが、仮に年間150万円とすると、150万円以下の所得しかない人を貧困と定義します。」

 「相対的貧困」は、「他の人と比べてどの程度所得が低いかということに注目します。たとえば、平均的な所得と比較して、何パーセント以下の所得しかない場合を貧困と定義するとらえ方です。他人と比較して自己の所得が非常に低いと、その人は貧困を感じ疎外感をもつだろうと見なして貧困を定義するものです。」

 

  「新しい幸福論」(橘木俊詔著 岩波新書)は全5章で、それぞれの章は第1章「ますます深刻化する格差社会」、第2章「格差を是正することは可能か」、第3章「脱成長経済への道」、第4章「心豊かで幸せな生活とは」、第5章「いま、何をすべきか」となっており、「はしがき」と「おわりに」が付けられています。新書ですので5章とはいっても短時間で読み終えられるわかりやすい内容になっています。

   章の見出しでわかるように第1章から3章までは格差社会の現況と格差是正の可能性、今後の望まれる政策のあり方などが、「経済にダメージを与えないような、そして、幸福度を上げることを同時に達成するようなもろもろの政策を考えたい」として挙げられています。

 

 「新しい幸福論」と名付けられた本著の特徴は4章、5章であることは明らかです。第4章の小見出しは「1.食べるために働くべきではあるが、それがすべてではない」「2.家族」「3.自由な時間」となっています。第5章は「若い世代」「高齢者」「女性」「中央と地方の格差」「東京一極集中をやめる」に分かれており、それぞれについて政策提言がなされています。

   これまでの幸福論の一部にある処世訓に近い論述は各章にではなく、むしろ「おわりに

私が思うこと」でなされています。

 ・他人との比較をしない

 ・多くを、そして高くを望まない

 ・できれば「家族」とともに

 ・何か一つ打ち込めることを

 ・信仰をもつことはいいことではあるが

 ・他人を支援することに生きがいを

 ・他の人の幸せ

 と、それぞれの項目について考えが述べられています。これらを読むと、これまでの様々な幸福論と大差ないように思えますし、文学者や哲学者の幸福論と比べると物足りないのは確かだと思います。しかし「啓蒙書」として経済について知ることを「人生」や「幸福」と絡めて読むにはいいのではないでしょうか。

   ただ、幾つになっても「他人との比較をしない」と言われても、これほど難しいことはありませんし、彼が言う「逆の発想で、自分の優れた点を見つけてそれを100%生かせる人生を」と言われても「それも…?」と思われる方も多いと思います。

 

自分としては「幸福論を求める」より「格差社会の問題点をさぐり、そこに切り込んでいく」ことの方が現時点では有意義だと思いますので、そのための知識を得るには最適な新書だと思います。

  

 

 

「新しい幸福論」という新書

 

   橘木俊詔(たちばなきとしあき)さんの新しい著書「新しい幸福論」(岩波新書 20165月)が出版されたので早速読みました。「新しい幸福論」という書名から「これまでとは違った視点からの幸福論」とは想いましたが、言葉は悪いですが「なぜ今、陳腐な表現の『幸福論』なのか?」という感じを持ったのも事実です。これまでは新書に限ってみても「日本の経済格差」「格差社会 何が問題なのか」「家計からみる日本経済」といった書名で、いかにも経済学者の著書という雰囲気が漂っていたからです。だからこそか「そんな時代になったんだ」という直感のようなものを逆に覚えました。

 

彼は「格差社会 何が問題なのか」のあとがきで「本書は分量の限られた啓蒙書(ママ)です。したがって詳細な議論がないことに不満をもつ読者がおられるかもしれません」として本人著の専門書を紹介しています。自分のように経済が専門外の人間にとっては有り難い新書ですし、読んでいて「なぜ書くのか?」がよく分かります。彼の言葉では「啓蒙書」ということですが、訴えたいことは「経済の仕組みを分かって、格差がなぜ生まれるのか」を知ってほしいということなんだと想います。しかし状況はなかなか好転しません。勝手な憶測ですが、そんな世の中の動きへのもどかしさが「幸福論に行ったのでは?」とさえ感じてしまいます。

 

時代の流れで年功序列型賃金から能力・成果主義賃金へと移りつつあります。実力主義や成果主義が声高に叫ばれ「格差があっても実力の結果なんだから仕方がない」とか「格差の何が悪いのか」といった風潮は一刻のものでなく常態化しつつあります。その傾向に呼応するかのように国民の生活格差は拡大し、「貧困」が社会の課題の大きな一つとして挙げられるようになってきました。

   勝手な憶測ですが、そんな流れの中で格差社会を課題としながら「幸福論」を書き上げた橘木さんの気持ちがわかるような気がします。これまでの「幸福論」は彼が言うように哲学、社会学、心理学、文学などを中心に論じられてきています。そこに経済学の視点を加え「経済的な豊かさと人々の幸福度との関係を柱」にし、「働くことに特化するよりも、心豊かな生活を送ることのほうが幸せな人生では」と論じています。

 

橘木さんの著作で相対的貧困率についての知識と興味を持ちました。前回の「障害者と貧困問題」にも書いたように、障害者の貧困についても相対的貧困率がそれを測る基準の一つになっています。2014年のOECDの調査では、日本は相対的貧困率の高い順に世界4位になっています。「障害者と貧困問題」に出てくる年収122万円という算定の基準が相対的貧困率です。相対的貧困率とは、簡単にいうと「他の人と比べてどの程度所得が低いか」に注目するものです。障害者に関わる問題について書きながら、少しずつ「新しい幸福論」の紹介もしていくつもりです。

 

障害者と貧困問題

 

 「障害者8割が貧困状態」の見出しで、「福祉施設に通う利用者の82%は年収が『相対的貧困率』算定の目安となる122万円以下を下回り、本人の収入だけでは貧困状態にある」という記事が掲載されました(伊勢新聞5月18日朝刊 障害者作業所でつくる全国団体「きょうされん」の調査結果)。

 障害者と貧困に関する問題は長年の大きな課題でありながら、未だに大きな改善が図られていません。作業所での工賃や障害年金、福祉手当等を含めた全収入が年間100万円以下という人が61%、200万円以下となると98%にも上るということです。障害年金の拡充とともに、工賃等のアップをどう実現していくかが社会保障の課題です。

 ステップワン作業所も調査結果と同様で、工賃だけでは到底生活を営めるものを保障できていません。作業所と聞くと一般的には「給料をもらっている」と受け止められ、少なくとも最低賃金は確保されていると思われがちですが、実態は程遠いものになっています。

 「障害者総合支援法」(旧「障害者自立支援法」)によって、障害福祉サービスに係る給付などが整備され施設職員についての待遇等は改善されましたが、肝心の障害者本人の生活改善にはなかなか手が付けられていません。ステップワン作業所でも、工賃等の見直しが遅れています。今後、どういった方向で障害者自身の給料に当たる工賃を上げていくか、早急に考えていく必要があります。

 

 前回、「世界でもっとも貧しい大統領」を取り上げましたが、彼については国民の評価も分かれている部分もあるようです。今後も取り上げていきたいと考えています。

世界でもっとも貧しい大統領 

 

  最近の報道を見聞きしていると、「世界でもっとも貧しい大統領」と呼ばれたウルグアイ大統領のホセ・ムヒカのことを思い出します。2012年のリオ会議での演説に次のような言葉があります。

「昔の賢明な人々、エピクロス、セネカやマイアラ民族までこんなことを言っています。

『貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ』」

 8分間のスピーチに会場が沸き返ったとのことです。国民から「ぺぺ」の愛称で親しまれる大統領の生活ぶりや政治姿勢は一躍有名になりました。

 貧困が大きな社会的課題となる今、そして政治家と一般国民との金銭感覚についての認識が大きくズレてしまった今、彼の言葉にもう少し耳を傾けたいと思います。

「私は貧乏ではない。質素なだけです。」

「貧乏とは、欲が多すぎて満足できない人のことです。」

「私は、持っているもので贅沢に暮らすことができます。」

「人生はもらうだけでは駄目なのです。

 まずは自分の何かをあげること。

 どんなボロクソな状態でも、

 必ず自分より悲惨な状態の人に何かをあげられます。」

          以上 「世界でもっとも貧しい大統領ホセ・ムヒカの言葉」より